しるしをも求めてヨハネ2;17~25

「どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」      ヨハネ2:18
  イエスは、エルサレムの神殿で荒縄で鞭を作り、それを振り上げ、悪徳商人たちを追い出されました。神殿のことを、イエスは「わが父の家」と言われました。そのなかで、世界各地から集まる「過越の祭り」への参拝者を相手に、あくどい商売をしていたようです。そこで、怒れるイエスを見てきました。
 ところが、この神殿を管理する祭司・宗教屋どもがイエスに反撃に出てきたのです。言い分は「お前さんは、何の権威を持ってそんな大それたことをやってくれたのか。」「俺たちこそ、神殿の責任者だ。」「神殿を父の家と言いおったな。おまえさんがそんなでかい口をきくしるしはあるのか」とせまってきました。ことの善し悪しの問題でなく、彼らの面子の問題で、沽券にかかわる問題としてイエスに迫ってきたのです。
 実は、イエスが生まれる400年前の預言者マラキが、3章1節から
「あなた方が尋ね求める救世主メシヤは突然神殿にやって来て、まことにこの方は精錬する火」と明確に預言されていたのです。
 もし、彼ら祭司・宗教家どもが、神の家に忠実な管理人であるなら、そんな預言のあることは十分に知っていなけらばならなかったはずです。
 イエス突如現れて「宮潔め」をされている姿こそ、メシヤ・救世主の「しるし」そのものであったのです。神の預言されたご計画に愚鈍になっていたばかりか、
 悪徳商人と手を組んでまいないをピンハネしたり、信仰は腐敗していました。
イエスの「宮潔め」に自らの不信仰を反省して、キリストに敬服すべきところ。いいがかりで「何の分際で・・」「何をしやがるんだ」と、もう無頼漢、ヤクザのいちゃもんでイエスに立ち向かい、やがて、彼らはイエスを十字架にまで追いやり殺してしまうという恐ろしい涜神の徒となりさがっていくのです。これも、旧約聖書には預言されており。かれらは「しるし」をもとめつつ、自ら預言の成就の申し分のない証人になっていくのです。パスカルは、その著「パンセ」のなかで「ユダヤ人はイエスをメシヤであることを認めまいとして、イエスを殺したことによって、イエスがメシヤであることの決定的な証拠を与えてしまった。 また、イエスを否認し続けることによって彼らはみずから証人となった。
そして、イエスを殺し、彼を拒みつづけて預言を成就させてしまった。」といっている。
   聖書にはキリストがメシヤ・救世主であることの「しるし」証拠はすでに確立しています。  オウムの麻原の空中浮揚などあやしげな「しるし」を求めて、身を滅ぼした人たちがいます。私たちは聖書の中にすでに示されてる教えの中に信仰の指針を学んでいかなければ・・。

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