主は私の主に・・メシヤ論争 ルカ20:40~44

 「ダビデ自身が、詩篇の中でこういっています。『主は私に主にいわれた』」                                    ルカ20:42
 この聖書の箇所は、ちょっと理解しがたいところです。
ところが、この小さな一行が、いや「主は私の主に」・この一節が、当時の宗教の専門家たちのた誤った「イエス観」「メシヤ観」を根底からひっくり返してしまうほどの威力ある一節だったのです。
 確かに、旧約聖書には、来るべき救世主は「ダビデの子」として預言されていました。
 それを根拠に、当時の律法学者、宗教家ら、また民衆の中にも「ダビデの子」待望論がありました。そのダビデはイスラエルの誇り高き名君であり、英雄でした。こんにちでもイスラエルの国旗には「ダビデの星」がシンボルとして用いられているほどに。 
 キリストの時代はローマ帝国に占領され、「選民意識」は蹂躙され、屈辱の日々を過ごしていました。そんな中で、唯一彼らの希望はメシヤ来臨への熱望でした。しかも、それは巨大な軍事力を、政治権力をもってニックきローマを蹴散らし、イスラエルの再興を遂行する強気「メシヤ」像でした。
 ところが、バプテスマのヨハネが紹介したメシヤは、馬小屋の中に生まれ、30歳になるまでは鳴かず飛ばずのナザレ村での大工仕事。そして、世に出れば世の弱者の友として、世の底辺の無価値な「一匹羊」を追いかけているばかり・・・。これが、期待したメシヤ?????、とんでもないということで、宗教の専門家ほどイエスに躓き、イエスをニセ救世主と糾弾し、やがて十字架にまでつけてしまったのです。  この「メシヤ像」への誤解は、実は「ダビデの子」とう預言の解釈の誤りから来ていることをイエスは知って、「ダビデの子」とはダビデの倅でないことはもちろん、肉につながる子孫でもない、という意味で詩篇の110篇1節を引用して「主は私の主に仰せられる」をもって正されたのです。
 この1節の意味は「主(エホバ)は私(ダビデ)の主(アドナイ)に仰せられた」ということで、この「私の主」この主こそやがて世に現れる救い主メシヤを指しているとイエスは主張したのです。イエスの前に居並ぶ「専門家」たちには、度肝をぬかれ、おそらく彼がもっている聖書の手は震えだしたことでしょう。
 世に来られるメシヤはダビデの倅、縁つづき息子でなく、全権の大王・ダビデが「私の主」を仰ぐ、世には比肩する者のない「全能の神」が、人となって、ダビデ家系を利用して生まれてこられたという意味だった。イエスの聖書知識、その英知に「まさに神の子」を知る、です。

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