予定論について

「我は恵まんとするものを恵み、憐まんとするものを憐むなり」

                    (出エジプト記 33-19)

「その子いまだ生まれず、善も悪もなさぬ間に、神の選びの御旨は動かず・・・」

                       (ローマ書 9-11)

「世の創(はじめ)の前より我等をキリストの中に選び、御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり。」                

                         (エペソ書 1-5)

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ウエストミンスター信仰告白

第3章 神の永遠の聖定について‥

3-1. 神は全くの永遠から、起こってくることは何事であれすべて、ご自身の御心の最も 賢く清い計らいにより、自由に、また不変的に、お定めになられた。しかし、それによって、神が罪の作者となることなく、また、被造物の意思に暴力が加えられず、更にまた、第2原因の自由や偶発性が取り去られるのではなく、むしろ確立されるような仕方で、定められたのである。

3-2. 神は考えられるあらゆる条件に基づいて起こってくるであろうことや、起こりうることを、何事でもすべて知っておられるが、しかし神は、いかなることも、未来のこととして、あるいは、一定の条件に基づいて起こってくるものとして、予知したから、聖定されたのではない。

3-3. 神の聖定により、神の栄光を現すため、ある人間たちと御使いたちが永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死に前もって定められている。

3-4. このように予定され、あるいは前もって定められている、これらの御使いや人間は、個別的に、また不変的に指定されており、彼らの数は正確で確定いているため、増やされたり減らされたりすることはありえない。

3-5. 人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基が置かれる前から永遠不変の目的と御旨のひそかな計画とよしとされるところに従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって、それは自由な恵みと愛とだけから、被造物の内に信仰や善い行い、あるいはそのいずれかにおける堅忍、もしくは何かほかのものを、そうするように御自身を促す条件ないし原因として、予見したからではない。すべては輝かしい恵みが賛美されるためである。

3-6. 神は選びの民を栄光へと定められたので、神は御旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによって贖われ時至って働くその御霊によって、キリストへの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、御力により信仰を通して救いに至るまで保たれる。他の誰も、キリストによって贖われ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選びの民だけである。

3-7. 人類のそれ以外の者を、神は御旨のままに憐れみを示しも控えもなさる、御自身の御心のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する自らの主権的な力の栄光を輝かせるために、見過ごすこと、また、御自身の輝かしい義が賛美されるように、彼らをその罪のゆえに、恥辱と怒りに定めることをよしとされた。

3-8. 予定というこの高度の神秘についての教理は、その御言葉の中に啓示された神の御心に注意深く聞き、それに従順に従う人々が、彼らの有効的召しの確かさから、自らの選びを確信できるように、特別な配慮と注意をもって取り扱われるべきである。そうすれば、この教理は、心から福音に従うすべての人々に神への賛美と畏敬と称賛の理由、および謙遜と熱心と豊かな慰めの理由を、提供するであろう。

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「予定についての議論は、それ自体すでにある程度厄介な問題であるが、人間の好奇心が加わると、きわめて混乱した、危険なものとさえなる。すなわち、この好奇心はどのような枠を設けても、禁じられた脇道にさ迷いで、高く飛び上がることをとどめられないのである。そして、もし許されるなら、究明し、解明すべからざる隠れた奥義を神に残すことをしない。 このような無謀と不正とに、多くの人々がいたるところで陥っているので、かれらのうちのある人たちは、他の点では誤りを犯していないのをわれわれは見ているが、この点についての彼らの処する規準について、時期を見て忠告しておくことが適当である。そういうわけで、第1に彼らに思い起こさせねばならないことは、予定の問題を探求するに際して、自分達が神の知識の最も奥深いところに踏み込んでいるのであって、もし誰かが安心して、自信満々とここに飛び込むならば、その好奇心の満足は決して得られず、迷宮の中に入り、そこからの出口を何一つ発見できなくなる、という点である。何故なら、主がご自身の内に隠しておこうと欲したもうものを、人間が罰も受けないで、明け広げて見せたり、これによって、神がわれわれに驚きの思いを満たすために、理解させるのではなく、あがめようとしておられる気高い知恵を、昔から暴き出したりすることは正しくないからである。神はわれわれに啓示すべきであると考えたもうた、ご意思の隠されたところを、その御言葉によってあらわしたもうた。だが、われわれに関わりがあり、また益があると、あらかじめ見たもうた限りのことだけを、啓示すべきものとされた」。                                

 「主の御言葉こそ、彼について当然知るべきすべてのことを捜すための唯一の道であり、彼について見るべきすべてのことを見通すために、我々を照らす唯一の光であるとの考えが、我々の心を占めているならば、我々は容易に一切の無思慮から引き留められ、抑制される。何故なら、我々は御言葉の限界を超えるやいなや、道を外れて闇の内を進み、そこで繰り返し繰り返し迷い、滑り、躓かざるをえない、ということを知っているからである。従って、我々はこのことを第一に目の前に据えよう。いわく、神の言葉によって明らかにされる以外に、予定について知ろうと志すことは、人が道のないところを突進したり、闇の中で物を見たりするのに劣らず、狂気の沙汰である。また、我々はある種の無知の知が成立するこの件について、何か知らない事があるのを恥じてはならない。むしろ、我々はそれを渇望することが愚かであると共に危険であり、更に破滅的であるような知識を求めることを進んで自制する。しかし、もし、我々の気ままな好奇心が我々をせき立てるなら、それを抑制する次の言葉を常に対置すべきである。即ち、多すぎる蜜が良くないように栄誉を求めることは、好奇心の持ち主にとって栄誉にならない。何故なら、これが我々を破滅に突き落とすことができるのを見るとき、この大胆不敵さを我々が思い留まるのに十分な理由があるからである。」 

 「聖書は聖霊の学校であって、そこでは、知らねばならないこと、また知って益あることは、何1つ省略されていないが、知るに役立つこと以外は、何1つ説かれていないからである。従って、およそ予定に関して聖書の内に示されているすべてのことを、信仰者達に隠すことがないように注意しなければならない。それは、我々が信仰者たちから、彼らの神の恵みを意地悪くだまし取ったように思われたり、あるいは、隠しておいてこそ有益なものを、聖霊が公開したとして、我々が聖霊を告発し、侮辱しているように思われないためである。私は言う、我々は、キリスト者が彼に向けられた神のあらゆる語りかけに、精神と耳とを開くのを禁じないようにしよう。但し、その際、主が聖なる御口を閉じたもうやいなや、人もまた問い尋ねる道を直ちに断ち切る、という態度を守らなければならない。」 
(ジャン・カルヴァン著「キリスト教綱要3巻21章」より)

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