他山石 「空海と景教」 19  茄子作 九

  弘法大師・空海と云えば、日本でも一番人気の天才ですが、昔からキリスト教との接触が取沙汰きれて来ました。例のイロバ歌にキリストの贖罪死や神の唯一性が読み込まれていると説かれたり、本尊の大日如来と主なる神との相似性も云々されて来ました。
けれども、イロハ歌が空海の作であることは不明であり、その遺文中にキリスト教関係の一語も発見されていないことから、文献上では右のような話をたしかめることは出来ません。
 けれども、空海は唐に留学した際、キリスト教と接触したことは疑えません。時あたかも、都・長安は〝大泰景教″つまりネストリウス派のキリスト教が大流行中で、何でも見てやろうという知的興味の旺盛な空海が、その教えに開心を抱いたことは当然予想されます。
 空海は帰国の際に沢山の経文類を持ち帰りましたが、その中の一つ「六波羅蜜多経」は恩師の一人である般若三蔵が景浄の協力を得て訳し始めたものでした。そしてこの景浄こそ大泰寺と呼ばれた教会の牧師だったのです。
 もっとも、般若三蔵はのちに新しく訳し直したのですが、その間の経緯は空海も聞いていたと思われます。しかも、空海の宿所である西明寺と大泰寺つまり教会との距離は、旧地図によってはかってみると、わずか十五、六町(一キロ半~二キロ)ほどの近さでした。
一年三か月にわたる長安滞在中、空海はしたしくその門前を往来し、足を踏み入れたことでしょう。三十才を越えたばかりの空海が、どんな顔で教会堂を見、その教えを聞いたことか。
キリスト教は、壮年留学僧・空海の姿をも合わせて、中国、日本の歴史の上に大きく翼をひろげています。

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