伝道者になる ヨハネ 4:27~38

「来て、見て下さい。」            ヨハネ4:29
イエスのサマリヤ伝道のつづきです。井戸端でサマリヤの女と語り合っているところに、町に買い物にでかけていた弟子たちが帰ってきます。
 今と、違って男女が外で親しく話しあうなんて考えられない時代でした。しかも、イエスが不仲なサマリヤ女と、しかも不身持ちの女と語り合っている、弟子たちが、それを知ったら腰を抜かしてしまう場面です。弟子たちは、けげんな顔つきをしながら、27節には「なぜ彼女と話しているのか」とは、尋ねなかった、とあります。 イエスは古い慣習や差別を越えて、新鮮で清潔な印象を弟子たちは感じとっていたのでしょう。
 そうこうして入る間に、サマリヤの女は町に飛び出していきます。そして町中の人たちに「来て、見て・・・・。」と触れ回っていたのです。しかも、自分が日陰の生活で、誰にも知られたくなかった、5人まで夫がいて、いまは6人目の男と同棲してる、ふしだらさを、彼女は自分から恥も外聞もなく「来て、見て、私はいま、私の不身持ちな生活の全部を言い当てた方がいるのです。この方が昔から預言されてしたキリストさまではないかしら。」と。
 そこで町中の人たちはイエスのもとに集まってくる。彼女はまさに「女伝道師」に早変わりです。
 ここで、教えられたいことは、過去の生活はどうあれ、キリストによって霊的な目が開かれ、救いを確信したら、その喜びを、他の人に伝えざるをえなかった彼女の心境に学びたいものです。
 今日でも、聖書を読むと、自分の邪悪さ、恥部が、痛く指摘されることがあります。
一瞬は、「何と失礼な」と反撥と反感をもって、キリストから離れていく人もいるでしょう。でも、彼女は違った。一瞬はドキッとしたことでしょう。でも、しかし、「イエスの指摘された部分にこそ自分の渇きの根元在り、不幸の原因があることに気づいたとき、彼女は古きを捨てて・・象徴的なのは、せっかく水を汲みに来ているのに、水瓶を置きっぱなしにして、町に飛び出していく姿。まさに、神にあって生まれ変わった、新しい人生に、舞い上がっていく蝶を見るようではありませんか。
女が町に飛び出したあと、弟子たちとイエスの会話があります。「先生、召し上がって下さい」と、町から買ってきた食べ物を差し出すと、なんとイエスは「今は、何も食べたくない」と。弟子たちは、自分たちのいない間に何かたべられたのかな」と、いぶかっていると、イエスは32節で、「わたしにはあなたがたの知らない食物があります。」と答えられたのです。何の意味でしょうか。わたしは、イエスが一人の魂が新しく生まれ変わって巣立っていく姿に感動、感激でこころが満たされ興奮状態にあったのでは・・。私たちもこんな伝道がしたい ものです。

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