旅は道づれルカ24:13~35

「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らないのですか。」      ルカ24:18
  イエスが日曜日の朝早く墓を破って復活されたというビッグニュースは、瞬く間にエルサレム中の話題になったようです。それが、上に上げた 18節の言葉です。
 二人の男が都エルサレムから11キロ離れたエマオという村に行く途中、キリストの復活の話題で、けんけんがくがくの論争しながら旅を続けていたというのです。そこへ、当の復活のイエスが仲間に入ってこられたというのです。そして、イエスは二人に「何をそんなに熱心に話し合っているのかね」と訊ねられました。そこで、彼らはあきれ顔で、いま都で話題沸騰の「復活のイエスさまのことを知らないのですか。そんなのあなただけですよ。」と、語り始めたのが19節から25節です。そこで、彼らは女たちがイエスの墓に行くと中は空っぽで亡骸は無くなっており、天使が「イエスはよみがえられた」と告げ、そのことを何人かが確認しているのに、エマオへの旅人は半信半疑で十分確信が持てないまま、あれやこれやと論争を続けていたというのです。そこでイエスは「なぜ聖書にキリストは必ず殺されてよみがえると予言されており、また私自身も何度も自らの復活については予告してきたはずではないか。愚かな人たちだ」と悲しんで言われました。
 エルサレムには誰も否定しがたいほど歴然と「復活」が話題になっているのに「半信半疑」「信じがたい」と復活の事実の受け入れをためらっているのは、復活が事実か否かの問題でなく、それを聞く人間の中に「人は死ぬ。」「死んだら誰も生き返られない」という先入観というか固定観念ができあがっていて、その人間の小さな体験、経験から来る「井戸の中の蛙」式の信念を超えられないところに問題があるのではありませんか。「人は死ぬ。そして生き返られない」、しかし、キリストは人となられた神であれば、この論理は即座に成立しなくなります。「キリストは人となられた神である。だから十字架で死んでも三日目によみがえられる事は出来たのだ」と、考えれば、容易に解決できる問題であったはずです。 イエスは、この頑固で愚鈍な二人の弟子に、宿場でパンを裂き手渡したときに、十字架のなまなましい傷を通して、論より証拠とばかり復活の御自身を明らかにされました。

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