暗闇に耳を探すイエス ルカ22:47~51

「十二弟子のひとりで、ユダという者が・・・・」  ルカ22:47
   いよいよイエスは、聖書の核心に突き進んで行かれます。それは、人類救済の十字架の死です。
 イエスは、ユダの裏切りで、暴徒に捕縛され、一晩中リンチを受け、翌朝九時に十字架につけられるという緊張した場面です。
 この福音書を録したルカはたまらなく「十二弟子のひとり」とわざわざその理不尽さを強調しています。
 ユダは、なぜイエスを・・・。いろいろな説があります。その一つに、イエスがあまりにも社会の底辺に属する人々に近づき、いっこうに救世主・ローマ軍を蹴散らような、神通力を発揮してイスラエル民族の英雄になる気配がないことに失望して。イエスを窮地に追い込めばおめおめとは殺されるようなことはあるまい。イエスの超能力を引き出す手助けぐらいの思いをもっての裏切りだったというのです。
 でも、聖書の伝えるところによると、ただ彼は会計係をしていてごまかしの不正がばれるのを恐れてイエスをなき者にしようとしたとあります。また、聖書は「サタン・悪魔」が彼に入ったとも伝えています。
 いずれにしても、イエスと寝食をともにするほど密接な関係にあっても、人間の心は悪の誘惑にイチコロで弱いことを教えられ、だからいつも、「誘惑に陥らないように」との祈りが必要であることを教えます。
もう一つ、ここで教えられてることは、50,51節にある、剣で、ある男の耳をペテロが切り落として、イエスはそれを探して、耳を元通りに癒されたことです。 切られた男は大祭司つきの下僕でマルコスと言われています。「「耳は切り落とされた」のです。それを元通りに癒されるためには、それを暗闇に腰をかがめてその耳を探されるイエスの姿を想像して下さい。なんと、ご自分を十字架につけようとするの敵の一介の名もない下僕の耳を探しておられたのです。
 イエスは、この期におよんで、なお、こんな小さき者に心をとめ、また愛し給うお姿は、何と細やかな品位品格のにじみでるメシアの姿ではありませんか。天下大自然に獅子吼して従わせることができる、キリストは、暗闇に転がり落ちた耳なんてほっといてよかったのです。大勢の人たちの足で踏むつぶされたって、仕方がない状況の中に地を這って耳を探し回るイエス。人間社会の落ちこぼれを熱心に拾い集められたイエスの姿勢は最後まで変わることはなかったのです。

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