この投稿は 2009 年 9 月 24 日 木曜日 8:41 AM に 掲示板 カテゴリーに公開されました。 この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。 コメントを残すか、ご自分のサイトからトラックバックすることができます。
死はやはり恐ろしい。 死によって人間は永遠に無の中に消滅してしまうと思われるからである。 現代に生きる我々が自分の頭で普通に考えれば、死後に地獄に行くとか、天国に行くとかといった考えが浮かぶだろうか? 死をもってこの世界から永遠に消え去ってしまうと考えるのが自然だろう。 この消滅が永遠に続くというところに、恐ろしさの全てがある。 100億年後にまた生き返って、別の生が待っていると解っていれば希望も持てるだろう。 だが、そんなことはないだろうと我々の心は確信している。 この死の恐ろしさを避けるために、古来、人々はいろいろなことを考え出してきた。 仏教の説く輪廻転生、ニーチェの永劫回帰、そしてキリスト教の永遠の命、等。 しかし、多くの人たちはこれらの思想は、人間の弱さがつくり出した希望ではないかと考えている。 これらの思想が真実かどうかを見極めるのは、不可能に近いと思われる。
suzukaさん 死の問題で迷っておられるようですね。 「現代に生きる我々が・・・・、死後に地獄に行くとか、天国に行くとかといった考えが浮かぶだろうか?」とおっしゃっていますが、同時に「死はやはり恐ろしい」ともおっしゃっていますね。 現代人といえども、死をどれだけ否定しても「やっぱり死は怖い」少なくとも無視できないことと思っているのも事実ではないでしょうか。 一時話題になった丹波哲朗の「死生学?」がありましたね。彼が死の問題に関心を持った動機をある週刊誌で読んだのですが、あるお笑い芸人が、元気なときには、人の死を笑いのネタにして、笑い飛ばしていたようです。ところが、彼がガンで入院したというので病院にお見舞いに行った時のこと、エレべータを出て彼の病室に近づくと中から泣き声が聞こえてくる。中に入ってわかったことは、死を人ごとにして笑っていたのに、死が自分のこととなったとき、彼は死の恐怖に日夜泣いていたというのです。そこで丹波哲朗は、死は大変な出来事だ、と気づきいろいろ学び始めたというのでした。 ここで申し上げたいことは「死の恐怖」は、人間が作り出したものではなく本能的なもので、むしろ「怖くない」というほうが、不自然で、本能に逆らい、ゆがめられているのだと思いますが。 だから、本能に正直になって考えていただいて、死後のことを「わからないこと」としてしまわないで「わかりたい」と思い直していただくことをおすすめして今回は終わります。また、ご意見をお聞かせください。
sawaguchi 様
もちろん、私はわからないままで自分の生を終えたくはありません。 わかりたい、という以上に、わからないままでは死ねないという思いでいます。 人間、まだまだ先のことだと思っていても、何時死が訪れるか、わかったものではありません。 目標としている言葉はいろいろありますが、たとえば 「イエスは言われた。わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11:25)
このような言葉をかって私は信じていると思っていたことがありました。 しかし、今も尚、信じているかと問われれば、自信がありません。 今まで生きて、いろいろな経験をしました。 あるときは神を信じ、あるときは疑い、生きてきたような気がします。世の中にはあまりにも悲惨なことが多く、何の罪もないと思われる人達が殺されたりしていきます。 また、生まれながらにハンディを負って生きなければならない多くの人が存在します。 愛なる神が何故このようなことを容認されるのかという問いは、昔から人々を苦しめてきたことでしょう。 聖書は言うでしょう。「人間の罪故に」 と。 そうかもしれません。 究極的な真理は、人間に隠されているとも言われています。 イザヤ書の次の言葉を、傲慢にも人間は時として、忘れてしまうのでしょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 主の御告げ。 天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 (イザヤ書 55:8,9)
求め続けること、いま私にできそうなことはこのことだと思っています。 いや、これすらもできなくなって、挫折したり、途中で死んでしまうかもしれませんが。
死後の生に関する聖書の言葉を、一部ですが書き移しておきますので、参考にして下さい。
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 (伝道の書 12:7)
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万民の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙を拭い、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。 (イザヤ書 25:7,8)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネ 3:16)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じるものは、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 (ヨハネ 5:24)
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 (ローマ 6:23)
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」 としるされている、みことばが実現します。 「死よ。 おまえの勝利はどこにあるのか。 死よ。 おまえのとげはどこにあるのか。」 (コリント Ⅰ 15:54,55)
神は私たちを救い、また、聖なる招きを持って召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 (テモテ Ⅱ 1:9,10)
等々
死による永遠の消滅が恐ろしくないという人々がいるようである。私にとって、これは理解できないことだ。死後、地獄に行くのは恐ろしいが、永遠に消え去ってしまうのは、何とも思わない、という考えである。若い頃から死後の永遠の滅亡を想い、何度も恐怖を味わってきた私には、同じ人間でありながら、このように感じ方が違う人々がいるのが、不思議に思わざるをえない。 よって、私は賢者に同調者を探し求めることにした。プラトンの描くソクラテスの言葉に注目しよう。彼を古代の人物という勿れ。哲学においては当時から、進歩しているのか、解ったものではないのだ。(宗教においても同じことが言えると思う)。 「魂はこの生涯を苦しみながら生き、ついには死と呼ばれるものにおいて滅びるのだ。 それがただ一度肉体に宿ろうが、何度も宿ろうが、われわれ一人一人が死を恐れるという点では何の変りもない。 魂が本来不死であるかどうかを知らず、それを証明することができないとすれば、愚か者でないかぎり、死を恐れるのは当然のことだから。」 プラトン著 「パイドーン」95:D ここでソクラテスは魂が滅びるのを恐れることは当然のことだと言っている。 彼は地獄とか黄泉とかには、何も言及していない。ただ滅び去ることが恐ろしいと言っている。 私にはこれは当たり前のことに思える。 ある人が癌になったとする。医者は余命半年くらいだと家族に告げたとする。こんな時、日本人の多くは、本人に本当のことを知らせることをためらうものだ。本人がそれを知って、精神的な打撃を受けることを恐れるからだ。錯乱状態に陥るかもしれない、食事も喉を通らなくなるかもしれない、塞ぎ込んでしまうかもしれない、等と。こんな場合、死を宣告された人は一体何を恐れるのか? 死んで地獄に落ちることを恐れるのだろうか?そんな人は少ないだろう。殆どの人はこの世から消え去ることを恐れるのだと思う。(その先に何が待っているのか判らないということも含めて。)そして、自分はこれで滅び去ってしまうのだという予感で心は凍えてしまうのだろう。ムンクの「叫び」という絵の中の女性のように。 だが、死による自己の消滅を予感しながらも、本当に平然と死んでいく人は少数ながらいることだろう。ソクラテスの言うような愚か者でない、賢い人の中にもいることだろう。平素から死の観念に慣れ親しんでいる人、この世に絶望してしまった人、死の感覚が麻痺してしまった人、あるいは死に臨んで、自己が大自然に融合していくような感覚を持てる人、等々。(勿論、ここでは死後の生の存在を確信しながら、死んでいく人は除外している) だが、自己が永遠に消滅することを、まともに見据えて恐れない精神とは、想像を絶する強い心の持ち主の人、又は想像力の欠如した人、あるいは、無感覚な人、等、なのであろうか? それにしても、普通人間とは、癌に罹るとか、死刑を宣告されるとか、自分自身の生の終わりが明らかに示されないと、死を自分自身のこととして考えないものなのだろうか? 死から自らの目を遮り、死は自分とは関係のないもののように、生きているのだろうか?
suzuka様 「消えてしまうことが恐ろしい」ということを、私は十分理解していなかったかも知れません。「消える」ということは、この現世から消えてなくなる、ことをおっしゃっているのでしょうか。わたしもそんな思いに駆られたことがあります。美しい自然、愛する家族、親しい友人などと二度と会えないようにこの世から消えてしまうことが恐ろしく思ったことがあります。でも、教会で何人かの兄弟姉妹がすでに天に召された方います。その中に、私の義父は「天国でまた会おう」といってなくなりました。この世の人たちとの惜別は確かに恐ろしく思われることもありますが、だれ一人「死」を免れた人はいないし、聖書も生けるものにとって「死」は定められていると明言しているわけですから、受け入れるほかないと思います。 私は死後の世界で、もし無感覚の「無」の世界があるなら、苦しみとか、恐怖さえ感じない世界があるのであれば・・そんな意味で死は怖くないと思ったことがあります。繰り返しますが現世との別れは耐え難く思うだにゾットします。でも、長生きしたって「苦しいことのみおおかりき」とも、詩篇には、人生の総括は「勤労と悲しみとのみ」とあるように、むしろ死が永眠とか無の世界にいけるなら、こんな苦しい現世にいるより死にあこがれるということも理解できないことではないと思っています。 でも、死の本当の恐怖は死後、神に審かれる、永遠の審判としての死が定められ、それは古今東西すべての人が、、この「審き」を直感して、本能的な恐れをいだいていると思うのですがいかがでしょうか。長くなりましたが、suzukaさんもだいぶ聖書をお読みのようですから、イエスキリスト信じて「永遠の生命」の確信を得られることが死の恐怖から逃れられる唯一の道だと思います。 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」<ヨハネ3:36> キリストにある平安がありますように心からお祈りします。
sawaguchi 様の前回のコメントで、「死後の世界で、もし無感覚の無の世界があるなら、苦しみとか、恐怖さえ感じない世界があるのであれば・・そんな意味で死は怖くないと思ったことがある。」と書かれていますが、これは案外多くの人々が抱いている気持ちを代弁されたものかもしれません。 今の日本では年間の自殺者が3万人を超えているそうです。 先日もテレビでこの問題を取り上げていましたが、その原因には、事業不振や失業による多重債務や生活苦、職場環境から来る過労や鬱病、病気や家庭不和、等々、多くの人が苦しんでいる実態が報告されていました。 こんな状態から開放されようと、自ら死を選ぶ人は、“苦しみのない無の世界” と思われている死を選ぶのではないでしょうか? しかし、私が感じてきた“死”というものとは、かなり違っています。 言葉で伝えるのは難しいのですが、次にロシアの哲学者シェストフの著書より少し引用します。 「気が遠くなるほど永い間にわたって、お前はかってこの世に存在しなかった。 ところが、お前はそのことを、今、悲しんでいるわけではない。 お前がいなくてもこの世が存在し得ていた所以を理解しえないからといって、お前はわめき立てているわけではない。 ところが、お前が存在しなくなる運命にある。 これから先の永遠というものについては、お前はそれを受け入れ難いと主張してやまない。 明らかにお前は首尾一貫していない」。 (儚きものの哲学) 誰もが自分の生前の永遠の非存在については、不思議な感じは持つでしょうが、悩んだりはしないでしょう。 しかし、死後の永遠については全く違った感じ方をするものです。 死後の永遠を受け入れ難いと主張してやまないこの人の感じ方が、私の経験したものと同じようなものだと思っています。 死後の永遠の非存在にたいする恐怖です。 この意識に襲われると “いったいどうなるのだろう” という思いで心は凍え、氷りつく思いがします。 気が変になるのではないかという恐れで、この意識を直ぐに追い払おうとします。 こんな意識に長くとどまれるほど、私の精神は強くありませんので。 私が勝手に思うには、こんな意識は誰にでもあるが、殆どの人は心の奥の隅の方にしっかりと閉じて仕舞い込み、うまくコントロールしているのではないかと思っています。 私はこれを意識の表面に呼び出す習慣が少しばかりついてしまったのでしょう。 自殺をされていく人はこんな死の意識は持たないことでしょう。 いや、持ったことはあるとしても、自殺をしようとする意識の中では、死に対する恐れの気持ちは麻痺してしまい、“苦しみのない無” の世界に逃げ込みたいという思いが優先するのでしょう。 でも、もっと死の恐ろしさを知り、この世界の不思議さを想い、自らが獲得したのではない、与えられた生を抹殺することだけは回避して戴きたいものです。
自殺の防止については、専門的な知識もありませんので、死後の生の可能性の問題に戻りますが、sawaguchi 様は死後の「最後の審判」 に言及されていますが、確かにこれを通して天国と地獄に分けられるというのが、聖書の教えだと思います。 今までこの最後の審判というものがよく理解できず、抵抗感がありましたが、このことにもっと思いを向け、これを恐れることを学ばなければならないのかもしれません。 そうすれば、その先にある永遠のいのちに至る道も見えてくるのかもしれません。 これが私が長い間恐れてきた “死後の永遠の非存在” に対する唯一の答えのような気がします。 しかし、現代人の一人である私にとってこの 「“審き”を直感し、恐れを抱く」 ということを、今まで意識したことはないように思います。 私は今まで ”死後の永遠の非存在” ばかりを恐れていたような気がします。 だが、 ”創造主たる神” が存在すれば、聖書のいう ”審き” ということもあって然るべきということもわかります。 そしてその先に、信じるものに与えられる祝福に満ちた世界の存在というものも。 だが、そんな世界に自分が入る資格があるかどうかは大いに疑問です。 道のりはまだまだ遠いようです。 でも希望を持つということはいいことです。 いくつになっても、希望を持って生きたいものです。 「信仰と希望と愛とこの三つのものは限りなく在らん、・・・・・・」 というあのパウロの言葉を思い出します。 そうでした。 信仰と愛も必要でした。 では、また。
数年前、テレビで癌になった仏教の僧侶についての番組をやっていたのを思い出します。 担当医は初め本人に癌を告知するのをためらっていたようなのですが、本人が度々確認の質問をしてくるので、この人には隠し通せないと思い、本人に本当のことを言ったようです。 思った通りこの僧侶は冷静に受けとめ、だんだんと癌が進行していく中で、苦しみながらも、自分の死を見つめながら日々を送っているという番組だったと記憶しています。 この僧侶は、“木の葉が春に芽生え、立派な葉になり、そして秋には紅葉し、枯れ葉となって落ち、土に帰っていくのと同じように、人間も生まれ成長して大人になり、歳を取って最後に死を迎え、土に帰っていくのだ” というお考えのようでした。 そして、死ぬのが怖いという人からの電話相談も受けておられたが、「何度説明してもわからないようだ」 と言って嘆いておられました。 要するに大自然から来て、また大自然に帰っていくという考えだと思いますが、こういう考え方をする日本人は多いのではないでしょうか。だがこれで納得して死んでいける人は少ないと思われます。 何故なら人間は木の葉と違って、自意識を持ち、自分の死ぬべき運命を知り、永遠を思う想像力を持ち、それ故に死をおそれる心を持っています。そして、そのうえに魂をもっていると考えられています。 私も先の僧侶の説明では納得して死んでいくことはできないでしょう。 仏教関係の人は輪廻の考え方で、死んでもまた生まれ変わってくる、という思想を持っておられるものとばかり思っていましたが、先の僧侶は輪廻転生とは違った考えの持ち主だと思われます。 日本人は 「今度生まれ変わったときは、一緒にやりましょう」 等と気楽に挨拶のように言っているが、どこまで本気で言っているかは疑問です。 輪廻の思想が日本人に深く根着き、信じられているとは思えないからです。 先の癌になった僧侶に似た考えで、自然に帰っていくと漠然と思っている人が多いのではないでしょうか。 でも本当に自分の死を目前にしたとき、この考えで、こころ静かに、乗り越えていけるのでしょうか。 以前、職場の同僚が度々こう言うのを聞いたことがあります。「呆けるのも悪くない。何故なら、死の恐怖を味わわなくて済むから」 と。でも、身勝手な考えで、何か寂しいですね。 家族とか周りの人に余分な負担をかけることになりますし。 人間らしい、もっといい最期でありたいと思います。
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2008 年 9 月 13 日 10:38 PM
死はやはり恐ろしい。 死によって人間は永遠に無の中に消滅してしまうと思われるからである。
現代に生きる我々が自分の頭で普通に考えれば、死後に地獄に行くとか、天国に行くとかといった考えが浮かぶだろうか?
死をもってこの世界から永遠に消え去ってしまうと考えるのが自然だろう。
この消滅が永遠に続くというところに、恐ろしさの全てがある。
100億年後にまた生き返って、別の生が待っていると解っていれば希望も持てるだろう。
だが、そんなことはないだろうと我々の心は確信している。
この死の恐ろしさを避けるために、古来、人々はいろいろなことを考え出してきた。
仏教の説く輪廻転生、ニーチェの永劫回帰、そしてキリスト教の永遠の命、等。
しかし、多くの人たちはこれらの思想は、人間の弱さがつくり出した希望ではないかと考えている。
これらの思想が真実かどうかを見極めるのは、不可能に近いと思われる。
2008 年 9 月 14 日 4:50 PM
suzukaさん
死の問題で迷っておられるようですね。
「現代に生きる我々が・・・・、死後に地獄に行くとか、天国に行くとかといった考えが浮かぶだろうか?」とおっしゃっていますが、同時に「死はやはり恐ろしい」ともおっしゃっていますね。
現代人といえども、死をどれだけ否定しても「やっぱり死は怖い」少なくとも無視できないことと思っているのも事実ではないでしょうか。
一時話題になった丹波哲朗の「死生学?」がありましたね。彼が死の問題に関心を持った動機をある週刊誌で読んだのですが、あるお笑い芸人が、元気なときには、人の死を笑いのネタにして、笑い飛ばしていたようです。ところが、彼がガンで入院したというので病院にお見舞いに行った時のこと、エレべータを出て彼の病室に近づくと中から泣き声が聞こえてくる。中に入ってわかったことは、死を人ごとにして笑っていたのに、死が自分のこととなったとき、彼は死の恐怖に日夜泣いていたというのです。そこで丹波哲朗は、死は大変な出来事だ、と気づきいろいろ学び始めたというのでした。
ここで申し上げたいことは「死の恐怖」は、人間が作り出したものではなく本能的なもので、むしろ「怖くない」というほうが、不自然で、本能に逆らい、ゆがめられているのだと思いますが。
だから、本能に正直になって考えていただいて、死後のことを「わからないこと」としてしまわないで「わかりたい」と思い直していただくことをおすすめして今回は終わります。また、ご意見をお聞かせください。
2008 年 9 月 18 日 3:40 PM
sawaguchi 様
もちろん、私はわからないままで自分の生を終えたくはありません。
わかりたい、という以上に、わからないままでは死ねないという思いでいます。
人間、まだまだ先のことだと思っていても、何時死が訪れるか、わかったものではありません。
目標としている言葉はいろいろありますが、たとえば
「イエスは言われた。わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ 11:25)
このような言葉をかって私は信じていると思っていたことがありました。
しかし、今も尚、信じているかと問われれば、自信がありません。
今まで生きて、いろいろな経験をしました。 あるときは神を信じ、あるときは疑い、生きてきたような気がします。世の中にはあまりにも悲惨なことが多く、何の罪もないと思われる人達が殺されたりしていきます。
また、生まれながらにハンディを負って生きなければならない多くの人が存在します。
愛なる神が何故このようなことを容認されるのかという問いは、昔から人々を苦しめてきたことでしょう。
聖書は言うでしょう。「人間の罪故に」 と。
そうかもしれません。 究極的な真理は、人間に隠されているとも言われています。
イザヤ書の次の言葉を、傲慢にも人間は時として、忘れてしまうのでしょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 主の御告げ。 天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 (イザヤ書 55:8,9)
求め続けること、いま私にできそうなことはこのことだと思っています。
いや、これすらもできなくなって、挫折したり、途中で死んでしまうかもしれませんが。
2008 年 10 月 6 日 9:32 PM
死後の生に関する聖書の言葉を、一部ですが書き移しておきますので、参考にして下さい。
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 (伝道の書 12:7)
この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万民の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙を拭い、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。 (イザヤ書 25:7,8)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネ 3:16)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じるものは、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 (ヨハネ 5:24)
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 (ローマ 6:23)
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」 としるされている、みことばが実現します。 「死よ。 おまえの勝利はどこにあるのか。 死よ。 おまえのとげはどこにあるのか。」 (コリント Ⅰ 15:54,55)
神は私たちを救い、また、聖なる招きを持って召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 (テモテ Ⅱ 1:9,10)
等々
2008 年 10 月 21 日 10:32 PM
死による永遠の消滅が恐ろしくないという人々がいるようである。私にとって、これは理解できないことだ。死後、地獄に行くのは恐ろしいが、永遠に消え去ってしまうのは、何とも思わない、という考えである。若い頃から死後の永遠の滅亡を想い、何度も恐怖を味わってきた私には、同じ人間でありながら、このように感じ方が違う人々がいるのが、不思議に思わざるをえない。
よって、私は賢者に同調者を探し求めることにした。プラトンの描くソクラテスの言葉に注目しよう。彼を古代の人物という勿れ。哲学においては当時から、進歩しているのか、解ったものではないのだ。(宗教においても同じことが言えると思う)。
「魂はこの生涯を苦しみながら生き、ついには死と呼ばれるものにおいて滅びるのだ。 それがただ一度肉体に宿ろうが、何度も宿ろうが、われわれ一人一人が死を恐れるという点では何の変りもない。 魂が本来不死であるかどうかを知らず、それを証明することができないとすれば、愚か者でないかぎり、死を恐れるのは当然のことだから。」
プラトン著 「パイドーン」95:D
ここでソクラテスは魂が滅びるのを恐れることは当然のことだと言っている。 彼は地獄とか黄泉とかには、何も言及していない。ただ滅び去ることが恐ろしいと言っている。 私にはこれは当たり前のことに思える。
ある人が癌になったとする。医者は余命半年くらいだと家族に告げたとする。こんな時、日本人の多くは、本人に本当のことを知らせることをためらうものだ。本人がそれを知って、精神的な打撃を受けることを恐れるからだ。錯乱状態に陥るかもしれない、食事も喉を通らなくなるかもしれない、塞ぎ込んでしまうかもしれない、等と。こんな場合、死を宣告された人は一体何を恐れるのか? 死んで地獄に落ちることを恐れるのだろうか?そんな人は少ないだろう。殆どの人はこの世から消え去ることを恐れるのだと思う。(その先に何が待っているのか判らないということも含めて。)そして、自分はこれで滅び去ってしまうのだという予感で心は凍えてしまうのだろう。ムンクの「叫び」という絵の中の女性のように。
だが、死による自己の消滅を予感しながらも、本当に平然と死んでいく人は少数ながらいることだろう。ソクラテスの言うような愚か者でない、賢い人の中にもいることだろう。平素から死の観念に慣れ親しんでいる人、この世に絶望してしまった人、死の感覚が麻痺してしまった人、あるいは死に臨んで、自己が大自然に融合していくような感覚を持てる人、等々。(勿論、ここでは死後の生の存在を確信しながら、死んでいく人は除外している)
だが、自己が永遠に消滅することを、まともに見据えて恐れない精神とは、想像を絶する強い心の持ち主の人、又は想像力の欠如した人、あるいは、無感覚な人、等、なのであろうか?
それにしても、普通人間とは、癌に罹るとか、死刑を宣告されるとか、自分自身の生の終わりが明らかに示されないと、死を自分自身のこととして考えないものなのだろうか? 死から自らの目を遮り、死は自分とは関係のないもののように、生きているのだろうか?
2008 年 10 月 21 日 11:36 PM
suzuka様
「消えてしまうことが恐ろしい」ということを、私は十分理解していなかったかも知れません。「消える」ということは、この現世から消えてなくなる、ことをおっしゃっているのでしょうか。わたしもそんな思いに駆られたことがあります。美しい自然、愛する家族、親しい友人などと二度と会えないようにこの世から消えてしまうことが恐ろしく思ったことがあります。でも、教会で何人かの兄弟姉妹がすでに天に召された方います。その中に、私の義父は「天国でまた会おう」といってなくなりました。この世の人たちとの惜別は確かに恐ろしく思われることもありますが、だれ一人「死」を免れた人はいないし、聖書も生けるものにとって「死」は定められていると明言しているわけですから、受け入れるほかないと思います。
私は死後の世界で、もし無感覚の「無」の世界があるなら、苦しみとか、恐怖さえ感じない世界があるのであれば・・そんな意味で死は怖くないと思ったことがあります。繰り返しますが現世との別れは耐え難く思うだにゾットします。でも、長生きしたって「苦しいことのみおおかりき」とも、詩篇には、人生の総括は「勤労と悲しみとのみ」とあるように、むしろ死が永眠とか無の世界にいけるなら、こんな苦しい現世にいるより死にあこがれるということも理解できないことではないと思っています。
でも、死の本当の恐怖は死後、神に審かれる、永遠の審判としての死が定められ、それは古今東西すべての人が、、この「審き」を直感して、本能的な恐れをいだいていると思うのですがいかがでしょうか。長くなりましたが、suzukaさんもだいぶ聖書をお読みのようですから、イエスキリスト信じて「永遠の生命」の確信を得られることが死の恐怖から逃れられる唯一の道だと思います。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」<ヨハネ3:36>
キリストにある平安がありますように心からお祈りします。
2008 年 10 月 28 日 10:41 PM
sawaguchi 様の前回のコメントで、「死後の世界で、もし無感覚の無の世界があるなら、苦しみとか、恐怖さえ感じない世界があるのであれば・・そんな意味で死は怖くないと思ったことがある。」と書かれていますが、これは案外多くの人々が抱いている気持ちを代弁されたものかもしれません。 今の日本では年間の自殺者が3万人を超えているそうです。 先日もテレビでこの問題を取り上げていましたが、その原因には、事業不振や失業による多重債務や生活苦、職場環境から来る過労や鬱病、病気や家庭不和、等々、多くの人が苦しんでいる実態が報告されていました。 こんな状態から開放されようと、自ら死を選ぶ人は、“苦しみのない無の世界” と思われている死を選ぶのではないでしょうか?
しかし、私が感じてきた“死”というものとは、かなり違っています。
言葉で伝えるのは難しいのですが、次にロシアの哲学者シェストフの著書より少し引用します。
「気が遠くなるほど永い間にわたって、お前はかってこの世に存在しなかった。 ところが、お前はそのことを、今、悲しんでいるわけではない。 お前がいなくてもこの世が存在し得ていた所以を理解しえないからといって、お前はわめき立てているわけではない。
ところが、お前が存在しなくなる運命にある。 これから先の永遠というものについては、お前はそれを受け入れ難いと主張してやまない。 明らかにお前は首尾一貫していない」。 (儚きものの哲学)
誰もが自分の生前の永遠の非存在については、不思議な感じは持つでしょうが、悩んだりはしないでしょう。 しかし、死後の永遠については全く違った感じ方をするものです。 死後の永遠を受け入れ難いと主張してやまないこの人の感じ方が、私の経験したものと同じようなものだと思っています。 死後の永遠の非存在にたいする恐怖です。 この意識に襲われると “いったいどうなるのだろう” という思いで心は凍え、氷りつく思いがします。 気が変になるのではないかという恐れで、この意識を直ぐに追い払おうとします。 こんな意識に長くとどまれるほど、私の精神は強くありませんので。 私が勝手に思うには、こんな意識は誰にでもあるが、殆どの人は心の奥の隅の方にしっかりと閉じて仕舞い込み、うまくコントロールしているのではないかと思っています。 私はこれを意識の表面に呼び出す習慣が少しばかりついてしまったのでしょう。
自殺をされていく人はこんな死の意識は持たないことでしょう。 いや、持ったことはあるとしても、自殺をしようとする意識の中では、死に対する恐れの気持ちは麻痺してしまい、“苦しみのない無” の世界に逃げ込みたいという思いが優先するのでしょう。 でも、もっと死の恐ろしさを知り、この世界の不思議さを想い、自らが獲得したのではない、与えられた生を抹殺することだけは回避して戴きたいものです。
自殺の防止については、専門的な知識もありませんので、死後の生の可能性の問題に戻りますが、sawaguchi 様は死後の「最後の審判」 に言及されていますが、確かにこれを通して天国と地獄に分けられるというのが、聖書の教えだと思います。 今までこの最後の審判というものがよく理解できず、抵抗感がありましたが、このことにもっと思いを向け、これを恐れることを学ばなければならないのかもしれません。 そうすれば、その先にある永遠のいのちに至る道も見えてくるのかもしれません。 これが私が長い間恐れてきた “死後の永遠の非存在” に対する唯一の答えのような気がします。 しかし、現代人の一人である私にとってこの 「“審き”を直感し、恐れを抱く」 ということを、今まで意識したことはないように思います。 私は今まで ”死後の永遠の非存在” ばかりを恐れていたような気がします。 だが、 ”創造主たる神” が存在すれば、聖書のいう ”審き” ということもあって然るべきということもわかります。 そしてその先に、信じるものに与えられる祝福に満ちた世界の存在というものも。 だが、そんな世界に自分が入る資格があるかどうかは大いに疑問です。 道のりはまだまだ遠いようです。 でも希望を持つということはいいことです。 いくつになっても、希望を持って生きたいものです。 「信仰と希望と愛とこの三つのものは限りなく在らん、・・・・・・」 というあのパウロの言葉を思い出します。 そうでした。 信仰と愛も必要でした。 では、また。
2008 年 11 月 7 日 10:46 PM
数年前、テレビで癌になった仏教の僧侶についての番組をやっていたのを思い出します。 担当医は初め本人に癌を告知するのをためらっていたようなのですが、本人が度々確認の質問をしてくるので、この人には隠し通せないと思い、本人に本当のことを言ったようです。 思った通りこの僧侶は冷静に受けとめ、だんだんと癌が進行していく中で、苦しみながらも、自分の死を見つめながら日々を送っているという番組だったと記憶しています。
この僧侶は、“木の葉が春に芽生え、立派な葉になり、そして秋には紅葉し、枯れ葉となって落ち、土に帰っていくのと同じように、人間も生まれ成長して大人になり、歳を取って最後に死を迎え、土に帰っていくのだ” というお考えのようでした。 そして、死ぬのが怖いという人からの電話相談も受けておられたが、「何度説明してもわからないようだ」 と言って嘆いておられました。 要するに大自然から来て、また大自然に帰っていくという考えだと思いますが、こういう考え方をする日本人は多いのではないでしょうか。だがこれで納得して死んでいける人は少ないと思われます。 何故なら人間は木の葉と違って、自意識を持ち、自分の死ぬべき運命を知り、永遠を思う想像力を持ち、それ故に死をおそれる心を持っています。そして、そのうえに魂をもっていると考えられています。 私も先の僧侶の説明では納得して死んでいくことはできないでしょう。
仏教関係の人は輪廻の考え方で、死んでもまた生まれ変わってくる、という思想を持っておられるものとばかり思っていましたが、先の僧侶は輪廻転生とは違った考えの持ち主だと思われます。 日本人は 「今度生まれ変わったときは、一緒にやりましょう」 等と気楽に挨拶のように言っているが、どこまで本気で言っているかは疑問です。 輪廻の思想が日本人に深く根着き、信じられているとは思えないからです。 先の癌になった僧侶に似た考えで、自然に帰っていくと漠然と思っている人が多いのではないでしょうか。 でも本当に自分の死を目前にしたとき、この考えで、こころ静かに、乗り越えていけるのでしょうか。
以前、職場の同僚が度々こう言うのを聞いたことがあります。「呆けるのも悪くない。何故なら、死の恐怖を味わわなくて済むから」 と。でも、身勝手な考えで、何か寂しいですね。 家族とか周りの人に余分な負担をかけることになりますし。 人間らしい、もっといい最期でありたいと思います。