焼いた魚を ルカ24;36~43

「焼いた魚を一切れ差しあげる」   ルカ24:42
 キリストが墓からよみがえられたというニュースは都中に瞬く間に広がり、話題沸騰。
 ところが、キリストの弟子やクリスチャンたちの中に半信半疑、いやなかなか信じられない者たちがいたというのです。
   最初の報告は女たちからでした。でも、女は感情的で自己暗示にかかりやすいから、まともには取り上げられない。いや、大使徒ペテロも見たと証言をしている。彼は男だし、弟子団の指導的立場にある男だ。でも、待てよ。彼はイエスが十字架につけられる直前三度もイエスを裏切り、そのことで悔やみ寝不足気味、神経衰弱になっているのではないか。また、ペテロ一人でイエスを見たというのもあやしいものだ。さらに、いま、エマオに旅をしていた二人の者が、確かに復活のイエスにお会いしたと報告に来ている。でも、彼らは弟子でも名もない下っ端弟子でではないか。イエスが本当に復活したと言うなら、俺たちみんなが集まっているところに現れてくれば万事解決すのだが・・。
そんな、不信仰な弟子団の中に当の、復活のイエスが現れたのです。36節「これらのことを話している間に、イエス御自身が彼らの真中に立たれた」というのです。もうこれでイエスの復活の証拠は完全に揃ったわけです。イエスは、まさに、死人の内よりまさに生き返られたのです。
 ところが、まだ、弟子たちには心配がありました。37節を見てください。
  「彼らは驚き恐れて・・・」何を言い出すかと思えば「霊をみているのだと思った。」復活信仰は非科学時代に、安易に受け入れられたものではなかったのです。彼らも我らと同じぐらい批判精神は持ち合わせていたということです。
そして、復活のイエスはそんな弟子たちを、無理矢理に強制的信じさせようとされた気配は聖書を読む限りありません。
 イエスは「私が霊でオバケの類なら私にさわってみて確かめなさい」とまでおっしゃっているではないか。ところが、ところがそれでも「彼らはうれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっていました」
イエスもこんな弟子たちに哀訴もつきそうだったでしょう。でも、イエスはあきらめない。
何をして見せれば、愚鈍な不信仰な弟子たちに復活信仰を徹底的に受け入れさせる方法は、ほかに何があるか。イエスが思いついたのは、ほかでもない食べ物を食べて見せてやりたいと考え出されたことでした。41節「イエスはここに何か食べ物がありますか」と。そこへ差し出された一切れの焼き魚「彼らのまえで、それを取って召し上がられた」。
 復活信仰は狂信的な教団から迷信的作り出されえた、いわゆる神話の類では決してないと、聖書記録者ルカは必死になてイエスの熱意を、私たちに伝えているのではありませんか。
イエスのよみがえりが信じられない理由は何があるというのでしょうか。
 でも、イエスは44節から旧約聖書の預言の成就について詳細に語られ、預言こそ。天才パスカルをうならせた「イエスは預言されて生まれ、預言お通り死んでよみがえられた。故に、イエスは神である」と結論を明言していますように、復活は予言キリストが墓からよみがえられたというニュースは都中に瞬く間に広がり、話題沸騰。
 ところが、キリストの弟子やクリスチャンたちの中に半信半疑、いやなかなか信じられない者たちがいたというのです。
   最初の報告は女たちからでした。でも、女は感情的で自己暗示にかかりやすいから、まともには取り上げられない。いや、大使徒ペテロも見たと証言をしている。彼は男だし、弟子団の指導的立場にある男だ。でも、待てよ。彼はイエスが十字架につけられる直前三度もイエスを裏切り、そのことで悔やみ寝不足気味、神経衰弱になっているのではないか。また、ペテロ一人でイエスを見たというのもあやしいものだ。さらに、いま、エマオに旅をしていた二人の者が、確かに復活のイエスにお会いしたと報告に来ている。でも、彼らは弟子でも名もない下っ端弟子でではないか。イエスが本当に復活したと言うなら、俺たちみんなが集まっているところに現れてくれば万事解決すのだが・・。
そんな、不信仰な弟子団の中に当の、復活のイエスが現れたのです。36節「これらのことを話している間に、イエス御自身が彼らの真中に立たれた」というのです。もうこれでイエスの復活の証拠は完全に揃ったわけです。イエスは、まさに、死人の内よりまさに生き返られたのです。
 ところが、まだ、弟子たちには心配がありました。37節を見てください。
  「彼らは驚き恐れて・・・」何を言い出すかと思えば「霊をみているのだと思った。」復活信仰は非科学時代に、安易に受け入れられたものではなかったのです。彼らも我らと同じぐらい批判精神は持ち合わせていたということです。
そして、復活のイエスはそんな弟子たちを、無理矢理に強制的信じさせようとされた気配は聖書を読む限りありません。
 イエスは「私が霊でオバケの類なら私にさわってみて確かめなさい」とまでおっしゃっているではないか。ところが、ところがそれでも「彼らはうれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっていました」
イエスもこんな弟子たちに哀訴もつきそうだったでしょう。でも、イエスはあきらめない。
何をして見せれば、愚鈍な不信仰な弟子たちに復活信仰を徹底的に受け入れさせる方法は、ほかに何があるか。イエスが思いついたのは、ほかでもない食べ物を食べて見せてやりたいと考え出されたことでした。41節「イエスはここに何か食べ物がありますか」と。そこへ差し出された一切れの焼き魚「彼らのまえで、それを取って召し上がられた」。
 復活信仰は狂信的な教団から迷信的作り出されえた、いわゆる神話の類では決してないと、聖書記録者ルカは必死になてイエスの熱意を、私たちに伝えているのではありませんか。
イエスのよみがえりが信じられない理由は何があるというのでしょうか。
 でも、イエスは44節から旧約聖書の預言の成就について詳細に語られ、預言こそ。天才パスカルをうならせた「イエスは預言されて生まれ、預言お通り死んでよみがえられた。故に、イエスは神である」と結論を明言していますように、復活は予言の成就だった。

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