この投稿は 2008 年 8 月 9 日 土曜日 12:30 PM に 掲示板 カテゴリーに公開されました。 この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。 コメントを残すか、ご自分のサイトからトラックバックすることができます。
キリスト教の最初の言葉は、「イエス・キリストを信じれば救われる」 ということではなく、「この世界を創造した神が存在する」 ということだと思います。 聖書の一番初めは創世記で始まっています。 しかし、神がこの世界を創造したという聖書の主張は、現代ではこの世界の人間も含めた動植物は進化してできたという進化論に押されて、少数派であるのは誰もが認めるところです。 いずれにしろ、進化論が正しいのであれば、聖書が間違っている訳で、世界を創造した神は存在しないということになります。 しかし、ダーウィンの進化論は現在、いろいろな矛盾を指摘され、専門の生物学者の多くはこの説を否定しているにもかかわらず、学校の生物の教科書や、NHKのテレビ番組では相変わらず事実として扱われています。 今日に至るまで長い間、事実として信じられてきたものを、簡単には間違っていました、と方向転換するわけにはいかない事情があるのでしょうか。 進化論の問題点についてはいろいろな書物が出版されていますので、それを読んで戴くとして、聖書を信じることは決して現代科学に矛盾しないということは、現在ではむしろ実証されつつあるというのが実情だと思います。 聖書に書かれていることが真実なら、神は存在するというのも事実だということになります。 聖書の神の存在に関する論証については、使徒パウロの言葉がよく知られていると思われます。 「なぜなら、神について知りうることは、彼らには明らかであるからです。 それは神が明らかにされたのです。 神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。・・・」 (ローマ書 1:19,20 ) また、一方で聖書の神は隠れています神とも言われています。 「イスラエルの神、救い主よ。 まことに、あなたはご自身を隠す神。」 (イザヤ書 45:15 ) パウロの論証を受け入れることによって、神の存在を認めることのできる人は幸いでしょう。 しかし、やはり認めることのできない人もいることでしょう。 聖書自らが“隠れた神”と言っている神を、人間が直接認識することは不可能でしょう。 最後は、パスカルが 「パンセ-233」 で書いているようにどちらに賭けるかということ、即ち、創造主なる神の存在を信じるか、信じないかという問題になるのかもしれません。
有志様 ご投稿ありがとうございました。 私も、進化論があたかも実証科学かのように取り扱われていることに憂慮すものの一人です。 尚、神認識について、「ご自身を隠す神」という、一面もありますが、創世記で罪を犯したアダムとエバが、神の近づきを感じて茂みに隠れているところに、神の方から声をかけられているところは印象的ですね。また、同じイザヤ書で、神との距離をつくっているのは人間の罪であるとの証言もあります。 たしかに、人間が直接神を完全に知ることは「罪」ゆえにできませんが、ローマ書で言われているように、神の存在そのものは「弁解の余地がない」ほどに明らかにされているのではないでしょうか。 でもその神が、十字架の贖いをもって私たちを救って下さる「愛」については、聖書を通してでなければ、人は誰も知ることができないと信じています。
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2008 年 11 月 1 日 1:59 PM
キリスト教の最初の言葉は、「イエス・キリストを信じれば救われる」 ということではなく、「この世界を創造した神が存在する」 ということだと思います。 聖書の一番初めは創世記で始まっています。
しかし、神がこの世界を創造したという聖書の主張は、現代ではこの世界の人間も含めた動植物は進化してできたという進化論に押されて、少数派であるのは誰もが認めるところです。 いずれにしろ、進化論が正しいのであれば、聖書が間違っている訳で、世界を創造した神は存在しないということになります。
しかし、ダーウィンの進化論は現在、いろいろな矛盾を指摘され、専門の生物学者の多くはこの説を否定しているにもかかわらず、学校の生物の教科書や、NHKのテレビ番組では相変わらず事実として扱われています。 今日に至るまで長い間、事実として信じられてきたものを、簡単には間違っていました、と方向転換するわけにはいかない事情があるのでしょうか。 進化論の問題点についてはいろいろな書物が出版されていますので、それを読んで戴くとして、聖書を信じることは決して現代科学に矛盾しないということは、現在ではむしろ実証されつつあるというのが実情だと思います。
聖書に書かれていることが真実なら、神は存在するというのも事実だということになります。
聖書の神の存在に関する論証については、使徒パウロの言葉がよく知られていると思われます。
「なぜなら、神について知りうることは、彼らには明らかであるからです。 それは神が明らかにされたのです。 神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。・・・」 (ローマ書 1:19,20 )
また、一方で聖書の神は隠れています神とも言われています。
「イスラエルの神、救い主よ。 まことに、あなたはご自身を隠す神。」 (イザヤ書 45:15 )
パウロの論証を受け入れることによって、神の存在を認めることのできる人は幸いでしょう。 しかし、やはり認めることのできない人もいることでしょう。 聖書自らが“隠れた神”と言っている神を、人間が直接認識することは不可能でしょう。
最後は、パスカルが 「パンセ-233」 で書いているようにどちらに賭けるかということ、即ち、創造主なる神の存在を信じるか、信じないかという問題になるのかもしれません。
2008 年 11 月 1 日 2:56 PM
有志様
ご投稿ありがとうございました。
私も、進化論があたかも実証科学かのように取り扱われていることに憂慮すものの一人です。
尚、神認識について、「ご自身を隠す神」という、一面もありますが、創世記で罪を犯したアダムとエバが、神の近づきを感じて茂みに隠れているところに、神の方から声をかけられているところは印象的ですね。また、同じイザヤ書で、神との距離をつくっているのは人間の罪であるとの証言もあります。
たしかに、人間が直接神を完全に知ることは「罪」ゆえにできませんが、ローマ書で言われているように、神の存在そのものは「弁解の余地がない」ほどに明らかにされているのではないでしょうか。
でもその神が、十字架の贖いをもって私たちを救って下さる「愛」については、聖書を通してでなければ、人は誰も知ることができないと信じています。