この投稿は 2008 年 8 月 5 日 火曜日 9:02 PM に 掲示板 カテゴリーに公開されました。 この投稿へのコメントは RSS 2.0 フィードで購読することができます。 コメントを残すか、ご自分のサイトからトラックバックすることができます。
「明日のことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。・・・」 ( マタイ 6:34 ) 明日のことを心配しだすと、きりがないものです。 だんだん、歳を取ってきますと、夢も希望もなくなっていくような気がします。だんだん、寂しくなっていきます。ですから、今日一日生きることを考えるようにと、この言葉は言ってくれているような気がします。過去に戻ることはできず、未来は何が待ち受けているか分かりません。唯一確かな今日という日を大切にして生きることができれば良しとしましょう。
「 われわれは無力である。 われわれは失われた者である。 死はわれわれの生の律法として、いつも、すでに最先の位置をしめている。 われわれが言い得るのは次のことだけである。 すなわち、もし救いがあるとするならば、死からの救いでなければならない。 もし然りが存在するならば、この究極の否を廃棄する然りでなければならない。 もし出口があるとするならば、この恐るべき障壁がわれわれの行く手に立ちはだかっているその場所でなければならない。 もし神が神であるならば、この“最後の敵”(コリントⅠ 15:26) に打ち勝つ敵、すなわち死の死でなければならない。・・・」 (バルト 「ローマ書講解 5:12~ 」) 神学者バルトの若い頃の著作だけに、その熱意が感じられる文章です。 でも、この長老派教会とはやや傾向の異なる神学者であることも周知のことです。
「・・・この世には永続的な真の満足はありえないということ、われわれのすべての快楽は空虚なものにすぎないということ、われわれの災いは無限であるということ、そして最後に、われわれを瞬間ごとに脅かしている死は、遠からずして、永遠の滅亡または永遠の不幸という恐るべき必然性のなかに、いや応なしにわれわれを投げ込むであろうということ、これらのことを理解するには、さして高貴な魂であることを必要としない。 これほど現実的で、これほど恐ろしいことはない。 好きなだけ強がってみせるがいい。 それがこの世で最も美しい生涯を待ち受けている終末である。 そのことをよく反省したうえで、次の問いに答えてもらいた。 この世には、来世の希望においてしか、幸福はないということ、人はそれに近づくにしたがってのみ幸福であるということ、永遠について完全な確信を得た者にとってはもはや不幸は存在しないと同様に、それについて何の光を持たないものにとっては幸福は存在しないということ、これらのことは、疑いの余地がないといっていいのではないか?・・・」 パスカル著 「パンセ 194」
後半部分の 「この世には、来世の希望においてしか幸福はない」 と言っていることに関しては勿論、異論があると思われます。しかし、高齢者や人生を不条理と考える人などは、この言葉は身に沁みて感じる人も多いのではないでしょうか。
Suzukaさん 人生苦について言えば、枚挙にいとまがありませんね。
花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき 林 芙美子
また、 仏教では、「老・病・死」を人生の「三苦」といい、これに「生」をくわえて、人生の「四苦」といっているのですが、「生」すなわち、生まれること自体が最大の苦しみである、ということになる。人間、生まれなければすべての苦しみはないのだから、というようです。 もちろん聖書も 「 汝人を塵(ちり)に帰らしめてのたまはく 人の子よ、汝ら帰れと。 汝の目の前には、千年(ちとせ)もすでに過ぐる昨日のごとく、 また夜の間のひとときに同じ。 汝これらを大水の如く、流れ去らしめたまふ。 彼らは一夜(ひとよ)の眠りの如く、朝(あした)に生(は)へ出(いず)る青草の如し。 あしたに生えいでて栄え、 夕べには刈られて枯るるなり。 ……… 我らが年を経(ふ)る日は七十歳(ななそじ)に過ぎず、 あるひは健(すこや)かにして八十歳(やそじ)に至らん。 されどその誇るところは、勤労と悲しみとのみ、 その去りゆくこと速(すみや)かにして、我らもまた飛びされり。」 詩90篇 人は、みなこお「四苦八苦」より脱却するために努力?、いや眼を閉じて逃避していると言って方がいいのかも知れません。 この絶望的人生の崖っぷちに立っている自分に真正面から対峙し、その現状を十分認識し、そこからの「救い」を死にものぐるいで求めようとすれば、キリストの「重荷を負う者、我に来たれ、我汝らを休ません」の福音に出会うことができるのに、と思えてなりません。
「・・・私たちはどこから来たのか。なぜこの世にいるのか。一体どこへ行くのか。・・・・・ 長い人生の間には、何度か、自分でも納得できない、わけのわからない思いをするときがある。そして、人生で最も恐怖心を感じるのが、こういう思いをするときなのである。 ・・・人間は死んだらどこへ行くのか。自分が生まれる前は一体どこにいたのか。こう考え始めたが最後、私たちは、それこそ止めどなく深い不安へと陥ってしまうものなのである。」 ジェレミー・リフキン著・竹内均訳 「エントロピーの法則 Ⅱ p 65」
真の信仰を持った人は、こういう不安・恐怖心を克服できることでしょう。 「 わたしはアルファであり、オメガである。 最初であり、最後である。 初めであり、終わりである。 」 (ヨハネの黙示録 22-13 )
「救い全体が、過去にも現在にも未来にも、一つの基盤を持っている。その基盤は私たちの信仰ではない。もし私たちがここで混乱すると、完全に混乱してしまう。人は決して自分自身の信仰に基づいて義とされることはできない。救いの全体を通じて唯一の基盤は、歴史における、イエス・キリストの十字架上の完成されたみわざである。信仰とは、私たちが神の無代価の賜物を受ける手段である空の手である。」 (フランシス・A・シェーファー著「真に霊的であること」より)
私たち人間の感情は変わり易いものです。気分の良い日は、自分も天国入りの仲間に入れそうだと思うこともありますが、逆に心が晴れない日が続くと、やはり神に見放されてしまったのか、と思ったりします。いつも変わることのないものに、目を向けなければ、と思います。
お名前 (必須)
メールアドレス (公開されません) (必須)
ウェブサイト
2008 年 10 月 30 日 10:29 PM
「明日のことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。・・・」
( マタイ 6:34 )
明日のことを心配しだすと、きりがないものです。 だんだん、歳を取ってきますと、夢も希望もなくなっていくような気がします。だんだん、寂しくなっていきます。ですから、今日一日生きることを考えるようにと、この言葉は言ってくれているような気がします。過去に戻ることはできず、未来は何が待ち受けているか分かりません。唯一確かな今日という日を大切にして生きることができれば良しとしましょう。
2008 年 11 月 3 日 2:36 PM
「 われわれは無力である。 われわれは失われた者である。 死はわれわれの生の律法として、いつも、すでに最先の位置をしめている。 われわれが言い得るのは次のことだけである。 すなわち、もし救いがあるとするならば、死からの救いでなければならない。 もし然りが存在するならば、この究極の否を廃棄する然りでなければならない。 もし出口があるとするならば、この恐るべき障壁がわれわれの行く手に立ちはだかっているその場所でなければならない。 もし神が神であるならば、この“最後の敵”(コリントⅠ 15:26) に打ち勝つ敵、すなわち死の死でなければならない。・・・」 (バルト 「ローマ書講解 5:12~ 」)
神学者バルトの若い頃の著作だけに、その熱意が感じられる文章です。
でも、この長老派教会とはやや傾向の異なる神学者であることも周知のことです。
2008 年 11 月 10 日 8:00 PM
「・・・この世には永続的な真の満足はありえないということ、われわれのすべての快楽は空虚なものにすぎないということ、われわれの災いは無限であるということ、そして最後に、われわれを瞬間ごとに脅かしている死は、遠からずして、永遠の滅亡または永遠の不幸という恐るべき必然性のなかに、いや応なしにわれわれを投げ込むであろうということ、これらのことを理解するには、さして高貴な魂であることを必要としない。
これほど現実的で、これほど恐ろしいことはない。 好きなだけ強がってみせるがいい。 それがこの世で最も美しい生涯を待ち受けている終末である。 そのことをよく反省したうえで、次の問いに答えてもらいた。 この世には、来世の希望においてしか、幸福はないということ、人はそれに近づくにしたがってのみ幸福であるということ、永遠について完全な確信を得た者にとってはもはや不幸は存在しないと同様に、それについて何の光を持たないものにとっては幸福は存在しないということ、これらのことは、疑いの余地がないといっていいのではないか?・・・」 パスカル著 「パンセ 194」
後半部分の 「この世には、来世の希望においてしか幸福はない」 と言っていることに関しては勿論、異論があると思われます。しかし、高齢者や人生を不条理と考える人などは、この言葉は身に沁みて感じる人も多いのではないでしょうか。
2008 年 11 月 11 日 10:32 AM
Suzukaさん
人生苦について言えば、枚挙にいとまがありませんね。
花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき 林 芙美子
また、 仏教では、「老・病・死」を人生の「三苦」といい、これに「生」をくわえて、人生の「四苦」といっているのですが、「生」すなわち、生まれること自体が最大の苦しみである、ということになる。人間、生まれなければすべての苦しみはないのだから、というようです。
もちろん聖書も
「 汝人を塵(ちり)に帰らしめてのたまはく
人の子よ、汝ら帰れと。
汝の目の前には、千年(ちとせ)もすでに過ぐる昨日のごとく、
また夜の間のひとときに同じ。
汝これらを大水の如く、流れ去らしめたまふ。
彼らは一夜(ひとよ)の眠りの如く、朝(あした)に生(は)へ出(いず)る青草の如し。
あしたに生えいでて栄え、
夕べには刈られて枯るるなり。
………
我らが年を経(ふ)る日は七十歳(ななそじ)に過ぎず、
あるひは健(すこや)かにして八十歳(やそじ)に至らん。
されどその誇るところは、勤労と悲しみとのみ、
その去りゆくこと速(すみや)かにして、我らもまた飛びされり。」
詩90篇
人は、みなこお「四苦八苦」より脱却するために努力?、いや眼を閉じて逃避していると言って方がいいのかも知れません。
この絶望的人生の崖っぷちに立っている自分に真正面から対峙し、その現状を十分認識し、そこからの「救い」を死にものぐるいで求めようとすれば、キリストの「重荷を負う者、我に来たれ、我汝らを休ません」の福音に出会うことができるのに、と思えてなりません。
2008 年 11 月 24 日 7:28 AM
「・・・私たちはどこから来たのか。なぜこの世にいるのか。一体どこへ行くのか。・・・・・
長い人生の間には、何度か、自分でも納得できない、わけのわからない思いをするときがある。そして、人生で最も恐怖心を感じるのが、こういう思いをするときなのである。
・・・人間は死んだらどこへ行くのか。自分が生まれる前は一体どこにいたのか。こう考え始めたが最後、私たちは、それこそ止めどなく深い不安へと陥ってしまうものなのである。」
ジェレミー・リフキン著・竹内均訳 「エントロピーの法則 Ⅱ p 65」
真の信仰を持った人は、こういう不安・恐怖心を克服できることでしょう。
「 わたしはアルファであり、オメガである。 最初であり、最後である。 初めであり、終わりである。 」 (ヨハネの黙示録 22-13 )
2009 年 1 月 6 日 10:00 PM
「救い全体が、過去にも現在にも未来にも、一つの基盤を持っている。その基盤は私たちの信仰ではない。もし私たちがここで混乱すると、完全に混乱してしまう。人は決して自分自身の信仰に基づいて義とされることはできない。救いの全体を通じて唯一の基盤は、歴史における、イエス・キリストの十字架上の完成されたみわざである。信仰とは、私たちが神の無代価の賜物を受ける手段である空の手である。」
(フランシス・A・シェーファー著「真に霊的であること」より)
私たち人間の感情は変わり易いものです。気分の良い日は、自分も天国入りの仲間に入れそうだと思うこともありますが、逆に心が晴れない日が続くと、やはり神に見放されてしまったのか、と思ったりします。いつも変わることのないものに、目を向けなければ、と思います。