私のために泣くな ルカ23:27~31

  「私のことで泣いてはいけない。」   ルカ23;28
 イエスは刑場であるゴルゴダに向かって重い足取りで歩いていかれます。今日、エルサレムに旅行に出かけると、必ずイエスが歩まれたという道に案内されます。ヴィア・ドロサ「悲しみの道」と呼ばれる狭い石畳の道です。ふだんでも、人通りの多い道に、今死刑囚が三人も通るということで道はごったかえしていていたことでしょう。
 27節を見ると、「大ぜいの民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが・・・」と録されています。当時の記録によると、死刑囚に苦痛を和らげるための麻酔薬を吸わせる慈善婦人会があったようです。そんな女たちが、同情の涙を流してイエスの後を追う。一人が泣けばみんなで声をあげて嘆き悲しむ。私たちがそこにいても、イエスの変わり果てたお姿に声を上げて泣くことでしょう。ところが、ところが、イエスは、息も絶え絶えの中で、「私のために泣かないで、あなた自身と、その子供たちのに泣きなさい」といわれたのです。これは、やがて来るエルサレム滅亡のことをイエスは予見して、その時のために恐れ泣け、とおっしゃっているのです。事実、イエスがこころ痛められたエルサレム滅亡は、この時から40年後、AD70年にローマ軍によって、街が跡形もなくなるほど徹底的に破壊されたのでした。
  イエスはご自分の苦痛より、神の審きによる人々の滅亡に心をいため同情をされたのでした。
 人は不幸に見舞われると、人の同情を求め、自分が世界中で一番の不幸者と嘆き悲しむ性癖があります。そして、周囲の人から同情の涙、優しさ、哀れみ、慰め・・、を受けて、もっとも哀れな可哀想な主人公を演じてしまうのではないか。
 イエスは、違った。何の罪、落ち度もなく、生涯愛の人で、神の審きの身代わりになって十字架を負って刑場に向かわれる、そのさなかに「私のために泣かなくてもよい。むしろ、あなた方の上にやがて来る、神の恐ろしい審きから免れる道を求めて泣くがいい」と。この時の、滅亡はローマ軍による局地的なものでした。でも、聖書には世の終わりに、全世界的、宇宙規模の神の大審判の日が来ることが預言されています。イエスは、今も、その日のために備えのない者のために十字架を負いつつ、悲しんでおられる・・。

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