自由に書いて下さい


コメント / トラックバック 9 件

  1. せせらぎ より:

    クリスチャンは酒やたばこを飲まないという印象があるのですが、飲んではいけないという聖書の教えがあるのでしょうか?
    たばこは体の害があるので、飲まない方が良いと思いますが、酒は飲み過ぎなければ、精神の緊張を和らげ、体調を良くするという働きもあるとおもうのですが。

  2. sawaguchi より:

    せせらぎ様
    よくいらっしゃいました。
    確かに、酒タバコを飲むな、という戒律は聖書にはないはずです。でも、日本で三悪といえば「飲む、打つ、買う」が定番になっています。その中に「飲む」は、酒を飲むことで、それを日本人は三悪の一つに数えてきたのです。
     そんな中で、せせらぎ様がおっしゃるように日本の社会で「 クリスチャンは酒やたばこを飲まないという印象があるのですが」と、いうことは、私たちクリスチャンにとって大変名誉なこと恐縮しています。昔の先輩クリスチャン達が残していった尊い遺産だと思い、それを受け継いで行くことも大切なことと思っています。
    聖書には「 また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」( テモテ第一5:23)と、むしろお酒をすすめている箇所もあります。だから、クリスチャンは飲んでも悪いことではないと、公然と酒を飲んでいるクリスチャンもいることを知っています。
     でも、私は「飲まない方が良い」という立場を取っています。その理由は、先ほど申しましたように日本の社会では「酒呑み」は、いい印象をもたれていないからです。
     ならば、私たちも呑まないでいよう、ということです。その聖書的根拠は、コリント第一の手紙8章13節で、当然食べていいはずの肉を、パウロは、もし人をつまずかせることになるなら、私は「いっさい肉を食べません」と、自己規制をしています。それに倣って「人をつまずかせることになるのであれば、いっさい酒を飲みません」と、戒律でなく自己規制していこうと考えている次第です。
    ですから、せせらぎ様と結論は同じになったようですね。
    「飲まない方が良いと思いますが、酒は飲み過ぎなけれ・・」と。

     最後に、酒は「きちがい水」と昔からいわれるように、あまり近寄らない方が無難とも思っています。「君子危うきに近寄らず」です。
    「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。い つ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」 箴言23:35

  3.  せせらぎ より:

    また、一つ質問しますので、よろしく願いします。
    キリスト教の葬儀に参列した時は、どのようにすればよいのかお教えください。
    例えば、焼香等の代わりに何をするのでしょうか? また、金品などを包んで持っていく時などは、何と書くのでしょうか?「ご霊前」でいいのでしょうか?
    また、亡くなられた方がクリスチャンの場合は、天国に行かれたはずですので、悲しむことではないと思うのですが、遺族の方にはやはり「ご愁傷様です」と挨拶をするのでしょうか。
    その他、注意することがあれば教えて下さい。

  4. sawaguchi より:

    せせらぎさん
    ご質問にお答えします。
    まず、焼香に代わるものですが、普通「献花」と言うことで、前に出て行って台の上においてくるようにしています。でも、慶弔学事典を書いている小畑先生は、献花より「飾花」の方がいいのではと提案されています。献花だとややもすると「死者礼拝」につながる心配があるためだと言われています。
     「香典」に対してクリスチャンは「御花料」と書いて出しています。
     また、「ご愁傷様」と、遺族の方に心から同情して口にしたくなる言葉ですが、せせらぎさんもおっしゃっているように、天国への凱旋としての葬儀を考えると教会ではあまりいい言葉ではないようです。私は、天国への旅立ちとわかっていても、しばらくの離別の寂しさ、悲しみは当然の人情ですから、「慰め」「励まし」の言葉を見つけ出して声をかけるようにつとめています。

  5.  ありふれた奇跡 より:

    最近、フジテレビ系で「ありふれた奇跡」という山田太一脚本のテレビドラマを見た。よくできた作品だったと思う。役者もうまかった。このドラマの内容とは関係のないことだが、我々一人一人の存在も「ありふれた奇跡」ではないだろうか?自分から望みもしないのに、この世界に産み落とされ、訳も分からないまま、とにかく唯ひたすら生き続けることが当たり前のように生き、そしてまた、訳が分からないままこの世界から消え去っていく運命にあるのだ。
    聖書の中には奇跡の話がよく出てくる。キリストが盲人の目を見えるようにしたとか、歩けない人が歩けるようになったとか、死者が生き返ったとか、他にも処女がみごもったとか。私がまだ若かった頃、キリスト教会に行っていた時のことだが、クリスマスの時に処女降誕について母は私に皮肉を込めて言ったものだ、「そんなバカなことがなあ」と。そう、そんなバカなことと思えることが聖書にはいくらでも書かれているのだ。私も最初の頃は思った。そんなことがありうるはずがない。これは何かを象徴的に語っているのに違いない、と。
    だが、偉そうなことを言ってみたところで、我々人間の知り得ることなどたかがしれている。このような奇跡がすべて本当に起こっていたとしても、それがどうしたというのだ。我々一人一人の人間がこの世界に突然出現したことを考えれば、それほど驚くにはあたらない。
    真夜中に、ふと目覚めて眠れなくなってしまった時、昼間では非常識に思えるような考えが浮かんでくることがよくあるものだ。太陽の下では何もかもが、当たり前のように存在し、動き回っているように見える。だが、少なくとも宇宙の真実の姿は昼間ではなく、真夜中にこそ見えるものだ。まぶしい太陽の下では、無数の星は存在しているにも拘わらず、見ることはできない。真夜中に闇の中に光る星々こそ、宇宙の真実の姿なのだ。
    絵を描く心とは、見えるものを通して見えないものを描くことだという。我々は見えるものの存在は疑わない。しかし見えないものでも、存在しているものも多くあるにちがいない。現に重力は見えないし、心も見えない。それが元になった現象だけが見えるにすぎない。かってソ連の宇宙飛行士が宇宙のどこにも神はいなかった、というようなことを言ったが、神が人間の目に見えると考える方がどうかしている。優秀な科学者だろうに、愚かなことを言ったものだ。
    要するに、我々は日々奇跡が周りに満ちているような世界に生きていながら、そのことに無感覚になってしまって、ありふれた、あたりまえの世界に生きていると思い込んでいるのではないのか、ということである。 

  6.  old age より:

    自分が老いの入り口に立っていることが、よく分かる日々である。
    正直、この年まで生きるとは、若い頃は想像していなかった。
    もっと早く、何処かで、のたれ死にすることになるだろうと思っていた。
    だから、この老いの日々には、戸惑いを感じる。
    もう、十分生きたような気がする。
    成すべき何が残っているというのだろう。
    だが、50代の頃は、仕事から解放されて、早くのんびりしたいと願った。
    そして、今、それが叶えられたというのに、この空白感は何なのか。

    私にはこの世界が自然に、偶然にできたとは、思えない。
    宇宙の姿も、人間のからだも、あまりに精巧にできているからだ。
    しかし、この世界が何故存在しているのかは分からない。
    星々も、人間も存在しなければならない、必然性はないように思える。
    もしかすると、これは創造主のお遊びかもしれない。
    過去に、何百億年、何兆年、いやその10の何乗年という時間が流れて来たことだろう。
    創造主も暇をもてあまされて、このようなものを造られたのかもしれない。

    この世界は恐ろしい世界である。
    今の不況などは序の口である。
    歴史を少しでも見れば明らかである。
    戦争に次ぐ戦争で、歴史は血に染まっている。
    人間は虫けらのように、殺されている。
    このようなことも、創造主のお遊びと考える理由である。
    若い人達は日々の生活に追われて、こんなことを考える暇はないだろう。
    だが、余計なことを考えず、目先のことを追って生きるのが幸せに生きるコツである。

  7.  old age より:

    「 日暮れて
      我が魂はいとさびし
      寄るべなき身の頼る
      主よともに宿りませ 」

       何処かの、賛美歌の歌詞でしょうか?
       映画の字幕に出てきました。
     

  8.  この世界は・・・ より:

    この世界は素晴らしい所であるというのは本当であると思う。
    暗黒の宇宙に浮かぶ青い地球の姿はどんな宝石よりも美しく見える。
    そんな地球に住んでいるのかと思うとそれだけでも貴重な命なのだと思える。
    しかし、それにも拘わらずこの日本で年間3万人もの自殺者がいるというのも事実なのだ。
    この世界で生きて行くのは決して容易ではないことも明らかである。
    学校でいじめられたり、失業したり、失恋したり、学校や職場で人間関係がうまくいかなかったり、仕事が自分に合わなかったり、きつかったり、病気になったり、寝たきりになったり、障害を負ったり、等々いろいろな理由で生きていく望みを失ったり、生きて行くことが困難で辛く感じることだろう。こんな状況にある時には世界は素晴らしいと感じるのは難しいことであるに違いない。
    しかし、それにも拘わらずこの世界に生きているということは素晴らしいことなのだ。永遠という無限の時間の中の瞬間にすぎないような今に生を受けるということはたった1度しか出来ない体験に違いない。苦しいこと、悲しいこと、困難なことのただ中にあっても、人生は生きるに値するのだ。青い空、風にそよぐ葉、まぶしい太陽の光、黄昏時の優しい風景、行き交う人々、すべてが愛おしくなるときがあるものだ。まれにあるこんな感情こそ真実なのかもしれない。
    この世界も、私たちの命も、唯一の、かけがえのない貴重なものなのだ。きっと!

  9.  「毎日が日曜日」 より:

    「毎日が日曜日」
    ある作家の小説の題名だが、昔テレビドラマでも見たことがある。登場人物のひとりが言う。「毎日が日曜日というのは恐ろしいことだよ。」本来、日曜日とは平日の職場や学校に拘束された時間から解放された、自分で時間を自由に使える喜ばしい日であるはずである。しかし、この開放感は、平日の拘束された、忙しい仕事、或いは退屈な苦痛な時間があるということが前提条件である。定年退職したような人にとって、このような喜ばしい開放感は一時的なものだろう。何故なら遠からず人は、日々の生活の中で目的のない人生に直面するからである。人間は幼い頃から、大きくなったら、学校に入ったら、就職したら、結婚したら、子どもができたら、孫ができたら、退職したら、といつも何か未来に希望を持ちながら生きることにより、日々の生活の不満を耐えてきたのだ。勿論、耐えられずに病気になったり、犯罪をおかしたりする人もいたりする。だが、誰もが、とにかく耐えて、定年を迎えた人を待ち受ける、この「毎日が日曜日」というこの無目的な生活を自分なりに克服しなければならなくなる。贅沢な悩みではあるが、対応を誤れば精神系の病気にもなりかねない深刻な問題をはらんでいる。そもそも人生に目的があり、意味があるのかという疑問である。この苦しく悩ましい問題に自分一人で立ち向かわざるを得なくなる。若い頃からこの問題に悩まされて来た人も多いことだろう。しかし、老年期のこの問題は、より赤裸々な形で、逃げ場のない形で現れることだろう。

コメントをどうぞ