見よ神の子羊を ヨハネ1:29~34

  「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」                      29節
   これは、先駆者ヨハネが、集まった群衆に、この一言でイエスが如何なる方であるかを言い表しました。
 まず。「見よ、世を」と。このことばだけなら、今日でも巷に溢れています。
「世を!」「見よ、世を」でも、そこは享楽街のネオンが輝いていても、悪の巣窟が見えても、人間の救いになるものを見つけ出すことは至難の業というべきでしょう。
 だから、「みよ、世の罪を取りのぞかん」とヨハネは叫んだ。
 確かに、世にも、心ある人たちは「罪」を憂い、罪を排除しようとの、運動を起こす人たちもいることでしょう。でも、悲しむべきかな。やがて、悪の強さ、厚さ、深さに挫折、力尽きてしまう。中には、悪には悪をもってと「暴力」をもって革命、クーデターがおこる。さらに、新しい悪を産み出す。20世紀に、21世紀でそれは、実験済みとなりました。右翼革命ファシズム、ナチズムは独裁者ヒットラーや日本の軍国主義をうみだし。左翼革命は共産主義理想社会を目ざして、結局、非人間的な、弾圧、粛清の中に、新しい罪が生じこそすれ「罪を取り除く」には、至らなかったのです。 
  ここに至って、取り除くべき罪は、単なる外側の社会にとどまらない。悪の根本は、むしろ「革命を叫ぶ」人間の心の中にあることに気づかされるのです。世の罪は、実は、人間の中に潜む悪によって引き起こされるものであって、革命スローガンや、人間の修行や知恵によってはいかんともし難いことに気づかされるのです。
  聖書の中のパウロは、「善をする意志は、わがうちにあるが、かえっ自分でも憎みべき
悪をやってしまう」と、罪との格闘、死闘を演じます。また、日本のパウロともいわれる親鸞も「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる. 無慚無愧のこの身に」( 善を取り繕う自分の心には蛇やサソリのごとく黒々と情欲がとぐろを巻いて、本性の悪が隠れているので、どうせ一時的な修行も偽善に過きず,その内本性を現すものだという意味です。)すざましいまでの人間の性悪説の告白です。…
  この「おのれの内に善の宿らぬ」を知って、あらゆる人間的な努力もむなしく、パウロは絶望します。「ああ、悩めるかな。わが死の身体より救わんものは誰ぞ!」と。パウロは世の罪、自分の罪の解決は「神」の他にないことを心底から宣言しているのです。
 神の救いのみ業は、神がキリストとなって世に来られ、人間の罪を身代わりに十字架で死んで下さることでした。キリストが世に来られるまでは、神殿に傷のない小羊をささげることによって一時的な罪の解決の道が示されていました。その旧約の「小羊」こそ、やがて来られるキリストの予表だったのです。そのキリストを、ヨハネは、今、高らかに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」を、と。、
  罪は人間の仕合わせを奪い、破壊し、絶望させている。それに気づいて、人間的努力にも無力を切実に気づいたものだけが、神のもとに辿りつく、いや神が備えたもう救いの道を発見できるのではないでしょうか。

コメントは受け付けていません。