鶏の声に ルカ22:51~62

ペテロは打ちけして「いいえ、私はあの人を知りません」
                                     ルカ22:57
  目も当てられません。イエスの弟子団のなかで、イエスにもっとも愛されていたペテロがイエスの目の前で否定するのです。裏切ったのです。
 それも、数時間前にペテロは、イエスの身に危機が迫っていることを予感して、彼はイエスに忠誠を誓い、イエスを激励するつもりだったのでしょう。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」<22:33>  大言壮語でした。ところが、イエスが現実に暴徒たちに荒々しくとらえれれると弟子たちは、クモの子を散らしたように、主イエスを一人残して逃げて行ってしまうのです。
 ところが、ペテロだけは暴徒の後ろから心配そうに、逃げかくれしながらついて行くのです。「死にいてるまで覚悟はできています」と、いった毅然としたぺテロの姿ではなくおっかなびっくりで、よせばいいのに「怖い物見たさ」で、イエスのあとを暗がりにまぎれてついて行く。そこでイエスを「俺はそんな男は知らん」と三回まで、彼はイエスを否定するのです。「舌の根の乾かぬうちに」あれほどりっぱな「覚悟、決意、信念」を豪語していた男がです。これは、ペテロだけでしょうか。人間の決意だの、覚悟だのが、なんと、貧弱なもので、自分自身でも信じがたい「意志薄弱」は実験済みではありませんか。
 ペテロの場合でも、敵が幾百万押し寄せ、脅し、拷問にあったからではなく、56節を見て下さい。一人の女中が「この人もイエスとごいっしょにいましたね」と。これは告発でもなく、お久しぶりにお会いしましね」程度のことばだったとも考えられる。
 教会に来ていて突然キリストを裏切って去って行く人を何人も見てきた。でも、その理由は、聖書の教えに反対とか、人に脅されてとかいうのでなく、実に些細なことでペテロのように、イエスを知らないと言い出すことはあるのではありませんか。
 ペテロは三回まで立て続けてイエスを拒否する。そこに鶏のなく声が飛び込んできた。それは、ペテロの良心を覚醒させた。なぜなら、イエスは、先に「お前は鶏の鳴く前に三度私を知らないと言う」<34節>予告されていました。もし、ここで鶏の鳴き声が聞こえてこなかったら、彼は三回どころか百回でも万回でもイエスを否みつづけていたかもも知れません。私たちにも。時に友人の声で、聖書の一言で不信仰を覚醒される事があります。

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