2009 年 10 月 7 日 水曜日
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことのない・・・その水を私に下さい。」 ヨハネ4;15
インターネットのある若者が「こころの渇きを癒して下さい(涙)」と訴えているのをありました。そして「空腹飢餓」それとは別にある心理学者は「空心飢餓」と新語を紹介しています。
確かに、多くの人はこころの渇きを漠然と感じていることでしょう。でも、その渇きの原因がわからす、自分の欲求を満たせば癒されるだろうぐらに考えていませんか。
今、イエスの前に「空心飢餓」の女がいます。日陰の生活で、人目を避けて真昼間井戸に水汲みに来ています。ところがイエスとの会話に中に「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出します。」
女は、もちろん飛びつきます。ただ霊的意味もわからずただのH2Oをもらえるものと期待して・・・。ところが、ところが、イエスの口から出た言葉は百雷のとどろきにも増して彼女を仰天させたことでしょう。彼女の心の渇きの根元を、単刀直入に指摘したのです。「行ってあなたの夫をここに呼んできなさい」と。実は、彼女は男癖が悪いというか、男運に恵まれなかったというか、今までに5人の夫があったのに、いまは6人目の男と同棲中だったというのです。
たしかに、彼女にとって男は、例え一時的であっても慰め、渇きにいやしを与えてくれたことでしょう。しかし、そのことで世間から不身持女とか、「売女」など、陰口をたたかれ、まともな近所づきあいも失っていた。それが「真昼間」のだれも人気のない時間帯を選んで水汲みにやってく「空心飢餓」の気の毒な女性でした。
私たちも、何か気休め的なもでうっぷん晴らしをしながら、「渇き」を紛らわしていることがあるのではありませんか。H2Oでやされるものと・・・。
女は、一番見ず知らずの旅人に知られたくなかった生活の恥部であり、渇きの根元であることを、イエスに一喝されて、電気ショックに打たれたように、彼女はそれを素直に認めて
「先生。あなたは預言者であると思います」と、宗教の世界に目醒めていきます。彼女もイスラエル民族の一員です。幼い純真無垢少女時代には、両親と一緒に会堂に毎安息日に礼拝に出席して聖書をまなんでいたようです。25節で「女はイエス言った。「わたしはキリストと呼ばれるメシヤ(救主)が来られることを知っています。」と告白しています。床下のダンゴ虫のような生活に落ち込んでいても若いときの宗教教育は、彼女のこころからは消えていなかったことをしります。
実に、女の前に立って、忍耐と慈愛をもて、こころを開き「活ける水」をこころに満たして下さる方。「あなたと話しているのが私です。」これで女の人生一変。次週にご期待。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 8 月 30 日 日曜日
「来て、見て下さい。」 ヨハネ4:29
イエスのサマリヤ伝道のつづきです。井戸端でサマリヤの女と語り合っているところに、町に買い物にでかけていた弟子たちが帰ってきます。
今と、違って男女が外で親しく話しあうなんて考えられない時代でした。しかも、イエスが不仲なサマリヤ女と、しかも不身持ちの女と語り合っている、弟子たちが、それを知ったら腰を抜かしてしまう場面です。弟子たちは、けげんな顔つきをしながら、27節には「なぜ彼女と話しているのか」とは、尋ねなかった、とあります。 イエスは古い慣習や差別を越えて、新鮮で清潔な印象を弟子たちは感じとっていたのでしょう。
そうこうして入る間に、サマリヤの女は町に飛び出していきます。そして町中の人たちに「来て、見て・・・・。」と触れ回っていたのです。しかも、自分が日陰の生活で、誰にも知られたくなかった、5人まで夫がいて、いまは6人目の男と同棲してる、ふしだらさを、彼女は自分から恥も外聞もなく「来て、見て、私はいま、私の不身持ちな生活の全部を言い当てた方がいるのです。この方が昔から預言されてしたキリストさまではないかしら。」と。
そこで町中の人たちはイエスのもとに集まってくる。彼女はまさに「女伝道師」に早変わりです。
ここで、教えられたいことは、過去の生活はどうあれ、キリストによって霊的な目が開かれ、救いを確信したら、その喜びを、他の人に伝えざるをえなかった彼女の心境に学びたいものです。
今日でも、聖書を読むと、自分の邪悪さ、恥部が、痛く指摘されることがあります。
一瞬は、「何と失礼な」と反撥と反感をもって、キリストから離れていく人もいるでしょう。でも、彼女は違った。一瞬はドキッとしたことでしょう。でも、しかし、「イエスの指摘された部分にこそ自分の渇きの根元在り、不幸の原因があることに気づいたとき、彼女は古きを捨てて・・象徴的なのは、せっかく水を汲みに来ているのに、水瓶を置きっぱなしにして、町に飛び出していく姿。まさに、神にあって生まれ変わった、新しい人生に、舞い上がっていく蝶を見るようではありませんか。
女が町に飛び出したあと、弟子たちとイエスの会話があります。「先生、召し上がって下さい」と、町から買ってきた食べ物を差し出すと、なんとイエスは「今は、何も食べたくない」と。弟子たちは、自分たちのいない間に何かたべられたのかな」と、いぶかっていると、イエスは32節で、「わたしにはあなたがたの知らない食物があります。」と答えられたのです。何の意味でしょうか。わたしは、イエスが一人の魂が新しく生まれ変わって巣立っていく姿に感動、感激でこころが満たされ興奮状態にあったのでは・・。私たちもこんな伝道がしたい ものです。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 8 月 16 日 日曜日
イエスはサマリヤを通ってガリラヤに向かわれました。
実は、この時代ユダヤ人と隣国のサマリヤは犬と猿の仲でいがみあっていました。だから、ガリラヤ、エルサレムの往来は2倍の距離になる遠回りをしてサマリヤを通らないのが普通でした。ところが、4節に「サマリヤを通っていかなければならなかった。」と不思議な一節があります。
そこには、一人の気の毒な女を救い出したい、との隠れた計画があったようです。7節を見ると「ひとりの女が水汲み来た」、いよいよ登場です。その時第六時ごろ、今日で言う真昼間の12時ごろを意味しています。普通の水汲み女たちは朝夕の涼しいときにやってきて楽しく井戸端談義に花を咲かせて・・・というのがパターンでした。ところが、日中の人もいない猛暑のなか一人で水を汲みにくる・・・・、なにか曰く因縁がありそうな女でした。
人と接触をさけて、こっそりと水を汲みに来る。孤独な影のある女です。
それが、イエスと対話をつづけているうちに「先生」と呼び、さらに「預言者?」そして、最後に「キリスト・救主・」と霊の目が開かれ、彼女の生き方は日陰から陽のあたる表街道に生きる女と変えられていきました。
イエスが「サマリヤをわざわざ通らなければならない」とおっしゃって理由が、この一人の無名の女の救いにあったことが改めて知らされます。しかも、この女は世間からは鼻つまみ者でした。イエスは一人の女の救いに、いがみ合い、憎しみ、民族の壁を打ち破って迫っていかれました。
はじめイエスは一人井戸端に座っていました。そこへ女が水汲みにやってきました。女の方から口をききません。イエスが「水を飲ましてほしい」と声をかけます。案の定でました。「ユダヤ人のあんたが、なぜわたしなんかに水を」剣もほろろでした。イエスは逆に「あなたがわたしを知れば、わたしはあなたに活ける水を与えることが出来るでしょう。」女も「あなたは水を汲むものを何も持っていないではありませんか。」「でも、その活ける水とやらをどこから手に入れるのですか。」女のこころが少しづつ開かれていきます。でも、イエスが霊のことを語るのに、彼女は目先に単なる水、いくら飲んでもすぐ渇くH2Oしか思いはありません。イエスは「あたしが与える水はその人の中で泉となって永遠のいのちへの水が湧き出します。」女は飛びつきます。「そんな水があれば、もうここに汲みに来なくていい。その水を下さい」と手をだした。すると突然イエスは「あなたの夫をここに連れてきなさい。」
女は何人かの男を取り替えひっかえ5人いて、いま6人目の男と同棲をしている。女の「渇き」の根元をイエスはつかれ、彼女に本当に人生の「渇き」そして救いの必要を気づかせようと、忍耐と愛情を持って迫られている姿、しかも一人のために・・・。伝道の原点を見る思いではありませんか。一本釣り伝道です。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 8 月 9 日 日曜日
「上からくる方は、すべてのものの上におられ・・」
ヨハネ3;31
バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの先駆者として、イエスのことを「私より偉い方」「靴の紐を解く値うちもない方」と、徹底して謙虚で自分の分際をわきまえ知った預言者でした。それがここに来て、イエスは「上から来る方は、すべてのものの上におられ・・」まさに天から遣わされた活ける神の子であることを鮮明に告白したのでした。
世に宗教は人の頭数さえあると言われていますが、その中でキリスト教との違いを一言で言えば、キリスト教は「上からの宗教」、いいかえれば、神が人となって地上に来られて、「この方( 天上の方)が見たこと、また聞いたことをあかしされる・・・」、神御自身によって語られ教えられた宗教だというのです。人間には誰も、生まれながらにして「宗教心」をもっていて、みんなが手探りで「宗教」を求め、自らので作り上げて来たのです。でも、それらは、「下から出た」もので、一応宗教の格好はつけても「本当の宗教」には似て非なるものであることは 言うに及びません。ヘブル書1章1,2節で「 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」ここにほかの宗教には絶対にまねの出来ない独自性があり、超越性があるのです。ですから、「宗教はみんな同じさ」なんて言うことはクリスチャンの口からはしてはならないのです。
人間は「宗教」好きな生き物です。ところが、キリストが真の光をもって世に来られたのに「人は光より暗きを愛して、光に来ない。なぜなら自らの悪が明るみに出ることを恐れて・・。」というのです。だから私たちがイエスの神を信じ受け入れることができるのは、まさに「聖霊によって新しく生まれさせられている証拠」ではありませんか。
そして、、この上よりの光を拒む者に対しては「いのちを見ることなく、神の怒りがその上にとどまる」36節 と、神の怒りが示されるとのです。不信仰者に。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 8 月 2 日 日曜日
「あの方は盛んになり、私は衰えなければはりません。」 3章30節
イエスの先駆者としてイエスを世におくりだしたバプテスマのヨハネの崇高な聖書の中でも一等星の名句です。
ことの起こりは、このころ、イエスとバプテスマのヨハネは同じ地方で、群衆にたいして、悔い改めのバプテスマを授けていました。ところが、25節を見ると「イエスとバプテスマのヨハネのきよめ効果はどっちは上か。」という、セクト主義というか派閥争いの目がでかかっていたのです。ヨハネの弟子たちにすれば、「うちのヨハネ先生があの方にバプテスマを授けたのだから上だ。」
ところが、26節をみると、「・・・みなあっちの方に行きます。」
ヨハネの弟子たちは師匠に忠義だてをしようと熱くなっていたようです。「うちの先生の方が、本家本元」「それなのに、我らの先生よりあっちの方が人気がある。けしからん・・・」注意して弟子たちの言葉を見ると、「あっちのイエス様」とはいわず、「あの方」「あの方」とイエスのことを呼んでいます。これも、不平、遺恨のなせる業でしょうか。
この弟子たちの、ことばに、ヨハネはなんと答えるか。分裂?「ヨハネ党」設立へと動いたか。
ヨハネは、かつて「私は、あの方の靴の紐を解く値うちもない」<1:26、27>、と己れを控えた謙虚な人でした。そして、「私のあとからくる方は、私にまさる」と、ハッキリ自分の天命、分際をわきまえた人でした。
でも、人は、人気が出れば鼻を高くピクピクしはじめる。いかにも、自分がえらくなったかのように・・・。また、自分の縄張りから、ほかに取られていくと、「畜生!」と、おなじ、イエスの弟子でありながら対抗心、時には敵愾心までもって対立する場合がある。
ヨハネは、弟子たちの「贔屓」にこころは動きませんでした。むしろ、冷静に「人は天から与えられなけらば、何も受けることは出来ません」と弟子たちをたしなめるヨハネでした。
教会の中も、牧師たちの間にも、分派主義、偉ぶり派は台頭してくることがあります。
社会的に偉くなった人あるか。その人は、「わが今あるは神御意によるなり」と。また、教の会を「俺様が大きくした。見てみろ!」と、言う牧師があるか。やっぱり「わが今あるは神御意によるなり」と、栄光を主にのみにきすべきではないか。宗教改革で有名になったルターは「私の名など消えてしまえば・・・」といい。カルヴァンは「自分の墓など消してしまうように遺言を残していたほです。
バプテスマのヨハネのキリストへの使命感というか、自分の分際を、いかにほめられても、
持ち上げられたり、おだてられたりしても、決して揺らぎはしませんでした。
30節、ついに出ました。ヨハネ一世一代の名言が「あの方は盛んになり。私は衰えなければなりません」
世は、「俺だ。俺こそは」という声で耳も割れそうになる。自慢、高慢の声。しかし、ヨハネの崇高な態度にこころ洗われて「ただ神にのみ栄光はありますように」と唱和していきたいものです。「イエスの名こそ崇められ、われは消えゆくべし」と。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 7 月 26 日 日曜日
「どうして、そのようなこと(新しく生まれ変わる)がありうるでしょうか。」
ヨハネ 3;9
先週の続きですが、老練の宗教の指導者であるはずのニコデモが戸惑っています。「新しく生まれかわらなければ・・・。」と、イエスにいわれて。
日本にもたくさんの宗教がありますが、「生まれ変わらなければ・・・。」という宗教は聞いたことがありません。
多くの神社仏閣の門前には、御利益効能書きが、立てられています。「家相相談、パワー向上、商売繁盛、各種病気全快祈祷、子宝成就、合格祈願、良縁相談、ひきこもり改善祈願、姓名判断、その他各種お祓い。」 これは、インターネットで実際に見つけたある神社の「御利益メニュー」です。こういうのが宗教と思っている人には「生まれ変わり」の宗教は理解できないでしょう。また、宗教というと、難行苦行したり、多額の金銭を献金したりすることが宗教と思っておられる人も、「生まれ変わりの宗教」に度肝をぬかれ戸惑ってしまわれるでしょう。
なぜ、生まれ変わりの必要性を、聖書ではいうのでしょうか。
それは、人間の不幸の根元は心の中に潜む罪があるからだということです。その罪の解消に、外から水をかけ洗剤でこすたって消えるのではない。お祓い、然り、修行も然り、まして、心の罪を金銭で解決できるものではありません。どうしたら、こころの中に巣くう罪の禍いから脱出できるか。パウロは、罪と格闘して、絶望的な告白をしています。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ローマ書7:15)
そして、「ああ、この死のからだから救うものは誰ぞ」と悲鳴を上げているのです。
世には「性善説」なるものをとなえる人たちがいますが、聖書は全く、完全に「性悪説」の立場です。なぜなら、善いと知りながら、かえって、自らさえ憎むべき悪いことしか出来ない人間であるからです。
さて、このような人間は、どんなに努力しても神に近づくこと、救われることはできません。ある神学者は、人間は、生まれながら神に逆らって、「海賊船」に乗っているようだといっています。その中で、いかに模範的船員であれ、国家には反逆罪で死に値する罪人であるはずです。刑罰を免れるためには「海賊船」を脱出してこなければなりません。この橋渡しになって下さったのが、十字架にかかって、身代わりの死の刑罰を受けて下さり死んで下さったイエス・キリストです。キリストが用意して下さった救いの橋を渡ることを「イエスを信じる」ことに通じ、橋を渡って「新しい国家のもとに生きる」ことを、生まれ変わりと考えることが出来るのではないでしょうか。
ハワイ出身の高見山は、どう見たって外人です。でも、彼は日本に帰化して、いまは、渡辺 大五郎と日本人なっています。私たちもキリストを通して天国人として生まれ変わる事が出来るのです。キリストを信じた、パウロは「我らの国籍は天にあり」と、あの死のあがきから救われています。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 7 月 19 日 日曜日
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはことはできません」
ヨハネ3;3
ニコデモという人物の登場です。彼は、夜イエスの元にやってきたという。
なぜ、夜か。彼が、イエスを敵対視するパリサイ派に属していたことと関係がありそうです。さきほど、イエスは「宮潔め」で、神殿の境内で、神聖さが汚されていることに激怒して、悪徳商人を神殿から追い出されました。ところが、それを、金を受け取って容認していた神殿管理者と激しく対立しました。この神殿管理者こそパリサイ派の連中がしめていたのです。
その中から、抜け出すようにイエスに会いにくる。夜に。ニコデモは、ほかの仲間と違って、「若き青年宗教家・イエス」に何か心惹かれるものがあったのでしょうか。彼はユダヤ社会では、議員であり、知識人であり、しかも、年をとっていたようですから老練の立派な紳士であり、彼自身も人々から尊敬を集めていた指導者でもあったはずです。
この彼が、まだ世に出て間もない若きイエスに「師よ。」と声をかけていることは、イエスに精一杯のリップサービスのつもりもあったのでしょう。イエスと気軽に世間話、あるいは宗教論議でもしたかったのでしょう。ところが、イエスを「師」と呼ぶところに、彼の思い違いが、無理解がありました。イエスは「師」でなく、」神が人となって世に来られたメシヤ・救世主であることに気づいていない。いや、あの「宮潔め」 こそメシヤの出現のしるしであったのに、それを認めようとはしていないことが判ります。
その時です、まるで稲妻のような閃光がイエスからニコデモに向かって発せられました。
「まことに、まことにあなたに告げます。人新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ません。」ニコデモは目眩を脳震盪をおこしかけたことでしょう。自分の方が社会的地位も高く、イエスになにか偉ぶった意見でもしてやろうと魂胆が、見事打ち破られ、とんでもない思いもよらない言葉が返ってきたのでした。
ニコデモは宗教家ぶって、自分の学識、経験からくる旧来に常識的な宗教談義を予想して来たのに、イエスは「新しく生まれなければ」と。
聖書には、人には2回の誕生日が必要と言われています。まず、お母さんからうまれる第一回めの誕生。2回目は神による、正確には聖霊によって「生まれ変えられる」
new born again が必要とされます。
どうして、まさか「再びお母さんの胎に戻って・・」なんて言わないでください。新しく生まれるには、イエスを神の救主と信じて、自らに生き方をキリストにお委ねする決意をするとき神は、御自身の手でわたしたちを新しくして下さるといううのです。
「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人は、神の子どもとさっる特権をお与えになった。」<ヨハネ1章12節。>
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 7 月 12 日 日曜日
「どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか」ヨハネ2:18
イエスは、エルサレムの神殿で荒縄で鞭を作り、それを振り上げ、悪徳商人たちを追い出されました。神殿のことを、イエスは「わが父の家」と言われました。そのなかで、世界各地から集まる「過越の祭り」への参拝者を相手に、あくどい商売をしていたようです。そこで、怒れるイエスを見てきました。
ところが、この神殿を管理する祭司・宗教屋どもがイエスに反撃に出てきたのです。言い分は「お前さんは、何の権威を持ってそんな大それたことをやってくれたのか。」「俺たちこそ、神殿の責任者だ。」「神殿を父の家と言いおったな。おまえさんがそんなでかい口をきくしるしはあるのか」とせまってきました。ことの善し悪しの問題でなく、彼らの面子の問題で、沽券にかかわる問題としてイエスに迫ってきたのです。
実は、イエスが生まれる400年前の預言者マラキが、3章1節から
「あなた方が尋ね求める救世主メシヤは突然神殿にやって来て、まことにこの方は精錬する火」と明確に預言されていたのです。
もし、彼ら祭司・宗教家どもが、神の家に忠実な管理人であるなら、そんな預言のあることは十分に知っていなけらばならなかったはずです。
イエス突如現れて「宮潔め」をされている姿こそ、メシヤ・救世主の「しるし」そのものであったのです。神の預言されたご計画に愚鈍になっていたばかりか、
悪徳商人と手を組んでまいないをピンハネしたり、信仰は腐敗していました。
イエスの「宮潔め」に自らの不信仰を反省して、キリストに敬服すべきところ。いいがかりで「何の分際で・・」「何をしやがるんだ」と、もう無頼漢、ヤクザのいちゃもんでイエスに立ち向かい、やがて、彼らはイエスを十字架にまで追いやり殺してしまうという恐ろしい涜神の徒となりさがっていくのです。これも、旧約聖書には預言されており。かれらは「しるし」をもとめつつ、自ら預言の成就の申し分のない証人になっていくのです。パスカルは、その著「パンセ」のなかで「ユダヤ人はイエスをメシヤであることを認めまいとして、イエスを殺したことによって、イエスがメシヤであることの決定的な証拠を与えてしまった。 また、イエスを否認し続けることによって彼らはみずから証人となった。
そして、イエスを殺し、彼を拒みつづけて預言を成就させてしまった。」といっている。
聖書にはキリストがメシヤ・救世主であることの「しるし」証拠はすでに確立しています。 オウムの麻原の空中浮揚などあやしげな「しるし」を求めて、身を滅ぼした人たちがいます。私たちは聖書の中にすでに示されてる教えの中に信仰の指針を学んでいかなければ・・。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 7 月 5 日 日曜日
世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」 ヨハネ2;9
ここには、「カナの婚礼」においてなされた、イエスの最初の奇蹟が記されています。すなわち、イエスは水を上等のぶどう酒に一瞬にして」変られたというのです。 聖書には「奇蹟」はたくさん録されています。それで、人は「キリストの教えは立派で、だれも文句のつけようがない。でも、この科学の時代に、水をぶどう酒に・・・・・」とは、信じられない。と、聖書を閉じてしまうか、奇蹟の部分だけ読み飛ばして、いわゆる教えだけを処世訓として利用しようとする人たちがいます。しかし、奇蹟を認めなければ、その教えは、高僧賢者が」語るところと何ら変わるところがなくなってしまいます。「数学の天才」パスカルは、奇蹟の行えないキリストなんてただの人といい「奇蹟に反対して、合理的に信じることは不可能である。」(パンセ815) キリストが奇蹟を行ったから神であり、救主であると信じることは最も合理的であると言うのです。
さて、水を甘いブドウ酒に変えられたわけですが、考えてみれば、私たちの周囲でも、畑や果樹園を見渡せば、天から降ってくる同じ雨が、甘酸っぱいブドウをつくり、また、甘い富有柿になり、みずみずしいでっかいスイカになりと、思えば奇蹟を見る思いになりませんか。同じ土に、同じ雨水でいろいろな見事な果物が、野菜が出来てくるのは、まさに自然の奇蹟ではありませんか。
イエスは、自然を創り治めたもう方であるゆえに、段階的な途中の過程を省略して必要に応じてぶどう酒を一瞬につくりだすことはそんなに難しいことではなかったはずです。奇蹟を行われたことは躓きではなく、むしろ、キリストは人となりたもうた、神であり、救主であられたことの有力な証拠であったのです。
聖書に戻ると、近隣の親族友人を集めて、一世一代の晴れ舞台で新郎新婦は、皆から祝福されてうたげの真っ最中に、その舞台裏では、肝心の「ぶどう酒」がなくなったという報せが裏方に告げられたのです。宴会の途中でぶどう酒がなくなったということは、貧しくて十分い用意が出来ていなかったことの露呈であり、それが皆に知られてしまえば新郎新婦の恥であり、末代まで語りつげられて行くことになったでしょう。
ここに、イエスは、新郎新婦の知らないところで、水をぶどう酒に奇蹟をもって変えられたのでした。それが、宴席に運ばれていくと、客人たちは口々に「だれでも、初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪のを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と、ほめたたえたというのです。
人生も、初めは「金」「銀」「さんご」で飾り立ってられたものであって、やがて、終わりには「銅」と落ちぶれ、やがて「くず鉄」「粗大ゴミ」になって、人に邪魔者にされる人はいるのではありませんか。でも、生きるほど良くなる、生きるほどに恵みに溢れ、段々人生に「こく」を増していく!「水くさい」「どろくさい」から、甘露」と変えられていく人生。クリスチャンの人生は、段階的に聖化の恵みをうけて、日々に畏れ多くも神に近づけられていくものではありませんか。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »
2009 年 6 月 28 日 日曜日
「世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた」 ヨハネ2;9
ここには、「カナの婚礼」においてなされた、イエスの最初の奇蹟が記されています。すなわち、イエスは水を上等のぶどう酒に一瞬にして」変られたというのです。 聖書には「奇蹟」はたくさん録されています。それで、人は「キリストの教えは立派で、だれも文句のつけようがない。でも、この科学の時代に、水をぶどう酒に・・・・・」とは、信じられない。と、聖書を閉じてしまうか、奇蹟の部分だけ読み飛ばして、いわゆる教えだけを処世訓として利用しようとする人たちがいます。しかし、奇蹟を認めなければ、その教えは、高僧賢者が」語るところと何ら変わるところがなくなってしまいます。「数学の天才」パスカルは、奇蹟の行えないキリストなんてただの人といい「奇蹟に反対して、合理的に信じることは不可能である。」(パンセ815) キリストが奇蹟を行ったから神であり、救主であると信じることは最も合理的であると言うのです。
さて、水を甘いブドウ酒に変えられたわけですが、考えてみれば、私たちの周囲でも、畑や果樹園を見渡せば、天から降ってくる同じ雨が、甘酸っぱいブドウをつくり、また、甘い富有柿になり、みずみずしいでっかいスイカになりと、思えば奇蹟を見る思いになりませんか。同じ土に、同じ雨水でいろいろな見事な果物が、野菜が出来てくるのは、まさに自然の奇蹟ではありませんか。
イエスは、自然を創り治めたもう方であるゆえに、段階的な途中の過程を省略して必要に応じてぶどう酒を一瞬につくりだすことはそんなに難しいことではなかったはずです。奇蹟を行われたことは躓きではなく、むしろ、キリストは人となりたもうた、神であり、救主であられたことの有力な証拠であったのです。
聖書に戻ると、近隣の親族友人を集めて、一世一代の晴れ舞台で新郎新婦は、皆から祝福されてうたげの真っ最中に、その舞台裏では、肝心の「ぶどう酒」がなくなったという報せが裏方に告げられたのです。宴会の途中でぶどう酒がなくなったということは、貧しくて十分い用意が出来ていなかったことの露呈であり、それが皆に知られてしまえば新郎新婦の恥であり、末代まで語りつげられて行くことになったでしょう。
ここに、イエスは、新郎新婦の知らないところで、水をぶどう酒に奇蹟をもって変えられたのでした。それが、宴席に運ばれていくと、客人たちは口々に「だれでも、初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪のを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と、ほめたたえたというのです。
人生も、初めは「金」「銀」「さんご」で飾り立ってられたものであって、やがて、終わりには「銅」と落ちぶれ、やがて「くず鉄」「粗大ゴミ」になって、人に邪魔者にされる人はいるのではありませんか。でも、生きるほど良くなる、生きるほどに恵みに溢れ、段々人生に「こく」を増していく!「水くさい」「どろくさい」から、甘露」と変えられていく人生。クリスチャンの人生は、段階的に聖化の恵みをうけて、日々に畏れ多くも神に近づけられていくものではありませんか。
カテゴリー: 今週の説教要旨 | コメントはまだありません »