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	<title>日本長老教会　礎(いしずえ)キリスト教会 へのコメント</title>
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	<description>名古屋市守山区にあるキリスト教会です。カルヴァンによる宗教改革の伝統を受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。</description>
	<pubDate>Mon, 06 Feb 2012 09:05:25 +0000</pubDate>
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		<title>　梅雨の晴間 より 言葉　　(好きなことば、印象に残ったことば、支えになってくれたことば、など） へのコメント</title>
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		<dc:creator>　梅雨の晴間</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 16 Jun 2011 06:30:20 +0000</pubDate>
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		<description> 「損失を被ることよって、我々は大いに得るところがあり、我々はおのれの所業を、キリストの血の位置に建てることができるのだ、と考えて来た。哀れにも愚かなる私も、そのように考えていた。 私は精進や晩祷や寒さをもって我が身を苦しめ続けていた。そのような行為によって、罪の赦しを稼ぎ得ると信じていた故である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神は我々自身の正しさや英邁さによってではなくして、むしろ正しき裁きによって、我々を救い給わんとするのである。その正しき裁きは、我々に発するものでもないし、我々にその根源があるわけのものでもない。むしろ、それは外側から我々のもとへ到来するものである。それは、我々のこの地上において発生するものではなくして、天上において生まれるものである。」　　　（ルーテル）</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「損失を被ることよって、我々は大いに得るところがあり、我々はおのれの所業を、キリストの血の位置に建てることができるのだ、と考えて来た。哀れにも愚かなる私も、そのように考えていた。 私は精進や晩祷や寒さをもって我が身を苦しめ続けていた。そのような行為によって、罪の赦しを稼ぎ得ると信じていた故である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />
神は我々自身の正しさや英邁さによってではなくして、むしろ正しき裁きによって、我々を救い給わんとするのである。その正しき裁きは、我々に発するものでもないし、我々にその根源があるわけのものでもない。むしろ、それは外側から我々のもとへ到来するものである。それは、我々のこの地上において発生するものではなくして、天上において生まれるものである。」　　　（ルーテル）</p>
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	<item>
		<title>　「毎日が日曜日」 より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-531</link>
		<dc:creator>　「毎日が日曜日」</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 03 Mar 2011 11:38:12 +0000</pubDate>
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		<description>「毎日が日曜日」
ある作家の小説の題名だが、昔テレビドラマでも見たことがある。登場人物のひとりが言う。「毎日が日曜日というのは恐ろしいことだよ。」本来、日曜日とは平日の職場や学校に拘束された時間から解放された、自分で時間を自由に使える喜ばしい日であるはずである。しかし、この開放感は、平日の拘束された、忙しい仕事、或いは退屈な苦痛な時間があるということが前提条件である。定年退職したような人にとって、このような喜ばしい開放感は一時的なものだろう。何故なら遠からず人は、日々の生活の中で目的のない人生に直面するからである。人間は幼い頃から、大きくなったら、学校に入ったら、就職したら、結婚したら、子どもができたら、孫ができたら、退職したら、といつも何か未来に希望を持ちながら生きることにより、日々の生活の不満を耐えてきたのだ。勿論、耐えられずに病気になったり、犯罪をおかしたりする人もいたりする。だが、誰もが、とにかく耐えて、定年を迎えた人を待ち受ける、この「毎日が日曜日」というこの無目的な生活を自分なりに克服しなければならなくなる。贅沢な悩みではあるが、対応を誤れば精神系の病気にもなりかねない深刻な問題をはらんでいる。そもそも人生に目的があり、意味があるのかという疑問である。この苦しく悩ましい問題に自分一人で立ち向かわざるを得なくなる。若い頃からこの問題に悩まされて来た人も多いことだろう。しかし、老年期のこの問題は、より赤裸々な形で、逃げ場のない形で現れることだろう。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「毎日が日曜日」<br />
ある作家の小説の題名だが、昔テレビドラマでも見たことがある。登場人物のひとりが言う。「毎日が日曜日というのは恐ろしいことだよ。」本来、日曜日とは平日の職場や学校に拘束された時間から解放された、自分で時間を自由に使える喜ばしい日であるはずである。しかし、この開放感は、平日の拘束された、忙しい仕事、或いは退屈な苦痛な時間があるということが前提条件である。定年退職したような人にとって、このような喜ばしい開放感は一時的なものだろう。何故なら遠からず人は、日々の生活の中で目的のない人生に直面するからである。人間は幼い頃から、大きくなったら、学校に入ったら、就職したら、結婚したら、子どもができたら、孫ができたら、退職したら、といつも何か未来に希望を持ちながら生きることにより、日々の生活の不満を耐えてきたのだ。勿論、耐えられずに病気になったり、犯罪をおかしたりする人もいたりする。だが、誰もが、とにかく耐えて、定年を迎えた人を待ち受ける、この「毎日が日曜日」というこの無目的な生活を自分なりに克服しなければならなくなる。贅沢な悩みではあるが、対応を誤れば精神系の病気にもなりかねない深刻な問題をはらんでいる。そもそも人生に目的があり、意味があるのかという疑問である。この苦しく悩ましい問題に自分一人で立ち向かわざるを得なくなる。若い頃からこの問題に悩まされて来た人も多いことだろう。しかし、老年期のこの問題は、より赤裸々な形で、逃げ場のない形で現れることだろう。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　この世界は・・・ より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-358</link>
		<dc:creator>　この世界は・・・</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Jan 2011 11:37:16 +0000</pubDate>
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		<description>この世界は素晴らしい所であるというのは本当であると思う。
暗黒の宇宙に浮かぶ青い地球の姿はどんな宝石よりも美しく見える。
そんな地球に住んでいるのかと思うとそれだけでも貴重な命なのだと思える。
しかし、それにも拘わらずこの日本で年間３万人もの自殺者がいるというのも事実なのだ。
この世界で生きて行くのは決して容易ではないことも明らかである。
学校でいじめられたり、失業したり、失恋したり、学校や職場で人間関係がうまくいかなかったり、仕事が自分に合わなかったり、きつかったり、病気になったり、寝たきりになったり、障害を負ったり、等々いろいろな理由で生きていく望みを失ったり、生きて行くことが困難で辛く感じることだろう。こんな状況にある時には世界は素晴らしいと感じるのは難しいことであるに違いない。
しかし、それにも拘わらずこの世界に生きているということは素晴らしいことなのだ。永遠という無限の時間の中の瞬間にすぎないような今に生を受けるということはたった１度しか出来ない体験に違いない。苦しいこと、悲しいこと、困難なことのただ中にあっても、人生は生きるに値するのだ。青い空、風にそよぐ葉、まぶしい太陽の光、黄昏時の優しい風景、行き交う人々、すべてが愛おしくなるときがあるものだ。まれにあるこんな感情こそ真実なのかもしれない。
この世界も、私たちの命も、唯一の、かけがえのない貴重なものなのだ。きっと！</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>この世界は素晴らしい所であるというのは本当であると思う。<br />
暗黒の宇宙に浮かぶ青い地球の姿はどんな宝石よりも美しく見える。<br />
そんな地球に住んでいるのかと思うとそれだけでも貴重な命なのだと思える。<br />
しかし、それにも拘わらずこの日本で年間３万人もの自殺者がいるというのも事実なのだ。<br />
この世界で生きて行くのは決して容易ではないことも明らかである。<br />
学校でいじめられたり、失業したり、失恋したり、学校や職場で人間関係がうまくいかなかったり、仕事が自分に合わなかったり、きつかったり、病気になったり、寝たきりになったり、障害を負ったり、等々いろいろな理由で生きていく望みを失ったり、生きて行くことが困難で辛く感じることだろう。こんな状況にある時には世界は素晴らしいと感じるのは難しいことであるに違いない。<br />
しかし、それにも拘わらずこの世界に生きているということは素晴らしいことなのだ。永遠という無限の時間の中の瞬間にすぎないような今に生を受けるということはたった１度しか出来ない体験に違いない。苦しいこと、悲しいこと、困難なことのただ中にあっても、人生は生きるに値するのだ。青い空、風にそよぐ葉、まぶしい太陽の光、黄昏時の優しい風景、行き交う人々、すべてが愛おしくなるときがあるものだ。まれにあるこんな感情こそ真実なのかもしれない。<br />
この世界も、私たちの命も、唯一の、かけがえのない貴重なものなのだ。きっと！</p>
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	</item>
	<item>
		<title>　宗教とは？ より 日本は寛容で？　　　茄子作　九 へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e5%af%9b%e5%ae%b9%e3%81%a7%ef%bc%9f%e3%80%80%e3%80%80%e3%80%80%e8%8c%84%e5%ad%90%e4%bd%9c%e3%80%80%e4%b9%9d/#comment-312</link>
		<dc:creator>　宗教とは？</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 11 Dec 2010 07:29:39 +0000</pubDate>
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		<description>ご意見のように、日本の宗教は寛容であると思います。
しかし、寛容でなかった日本の宗教者もいたはずです。例えば、鎌倉時代の日蓮とか。彼は何故寛容でなかったか？自分のしっかりした信念（信仰）を持って行動したからだと思います。自分の信念が、周りの考えと相容れなかった時にも、自分の信念を貫いて生きた。当然、反発をかうことにもなるでしょう。しかし、賛同する者もいた。創価学会もその流れを受け継いでいるようです。
「寛容」とは、広辞苑によれば、　１．寛大で人をゆるしいれること。とがめだてせぬこと。　　２．善を行うことは困難であるという自覚から、他人の罪過をきびしく責めぬこと。　　３．異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと。
とありますが、「いまさらながら・・・ですが」さんも、多くの人も普通　１．の意味で使っているようですが、それで良いと思います。　２．や　３．の意味まで含めれば、日本も決して寛容ではないと思います。「日本の社会のルールにそぐわないと反発を受けるのは当たり前」というご意見は、　３．の意味に反していると思います。即ち、寛容でないということになります。　
「和をもって尊しとする」　という言葉があります。「仲良きことは良きことかな」と、ある作家は書いていました。　この言葉は特に日本人の根底にある考えだと思います。一般的に、この言葉を否定する者は日本人ではない、と思われているのではないか、とまで思えます。「村八分」という言葉、みんなと一緒でありたいという思い、人間の弱さから出たものだと思われますが、個性を重視する西洋の人達とは異なる考えだと思います。現在、日本も国際化しつつあります。世界の中の日本という考えに立つことを求められています。他国の存在なくして、日本は存在できなくなっています。北朝鮮のような生き方を選ぶなら別ですが、今更、日本をあんな国にしたいと思う人はいないでしょう。
日本の宗教は寛容なのではなく、殆どの日本人が神道とか、仏教とかの日本古来の宗教を本当に信じていないのではないでしょうか？　七五三の祝いは神道で、結婚式は神道かキリスト教で、葬式は仏教で行うような人が、真面目に宗教を考えているとは思えません。宗教とは人がそれによって生きる教えを信じることではないでしょうか？　その時々に応じて適当に、ある時は神道で、ある時は仏教で、と儀式を行える人は、無神論者と言ってもいいと思います。そして現代の日本では無神論が大多数を占めていると思われます。だからこそ、無神論者の立場から見れば、一人や二人神様が増えてもごたごた言わないということになるのだと思います。しかし、一人の人間として、この世界に生まれてきたこと、そして生きていくこと、そしていずれは、死んでいくことを真面目に考えれば、宗教的な信念、思想、と呼ばれているものを求めるのでは、ないでしょうか。「人はパンのみにて生きる者にあらず」（聖書；ルか伝４－４） というのは、本当ではないでしょうか。
宗教とは本来、非寛容なものだ、とある人は書いています。宗教とは生きていく上での信念とすれば、他人がどう思おうと、人は自分自身の内なる信念で生きるしかありません。それが他人の信念と異なっていても、それはそれで仕方のないことであって、「和をもって尊しとする」を第一として生きるべきだと言ってみたところで、和ということを第一として生きられない人間は山といるでしょう。他人の立場を認めつつ、和を考慮しつつ、自分が一番大切だと思うことを守りつつ生きるという生き方しか出来ないのではないでしょうか。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>ご意見のように、日本の宗教は寛容であると思います。<br />
しかし、寛容でなかった日本の宗教者もいたはずです。例えば、鎌倉時代の日蓮とか。彼は何故寛容でなかったか？自分のしっかりした信念（信仰）を持って行動したからだと思います。自分の信念が、周りの考えと相容れなかった時にも、自分の信念を貫いて生きた。当然、反発をかうことにもなるでしょう。しかし、賛同する者もいた。創価学会もその流れを受け継いでいるようです。<br />
「寛容」とは、広辞苑によれば、　１．寛大で人をゆるしいれること。とがめだてせぬこと。　　２．善を行うことは困難であるという自覚から、他人の罪過をきびしく責めぬこと。　　３．異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと。<br />
とありますが、「いまさらながら・・・ですが」さんも、多くの人も普通　１．の意味で使っているようですが、それで良いと思います。　２．や　３．の意味まで含めれば、日本も決して寛容ではないと思います。「日本の社会のルールにそぐわないと反発を受けるのは当たり前」というご意見は、　３．の意味に反していると思います。即ち、寛容でないということになります。　<br />
「和をもって尊しとする」　という言葉があります。「仲良きことは良きことかな」と、ある作家は書いていました。　この言葉は特に日本人の根底にある考えだと思います。一般的に、この言葉を否定する者は日本人ではない、と思われているのではないか、とまで思えます。「村八分」という言葉、みんなと一緒でありたいという思い、人間の弱さから出たものだと思われますが、個性を重視する西洋の人達とは異なる考えだと思います。現在、日本も国際化しつつあります。世界の中の日本という考えに立つことを求められています。他国の存在なくして、日本は存在できなくなっています。北朝鮮のような生き方を選ぶなら別ですが、今更、日本をあんな国にしたいと思う人はいないでしょう。<br />
日本の宗教は寛容なのではなく、殆どの日本人が神道とか、仏教とかの日本古来の宗教を本当に信じていないのではないでしょうか？　七五三の祝いは神道で、結婚式は神道かキリスト教で、葬式は仏教で行うような人が、真面目に宗教を考えているとは思えません。宗教とは人がそれによって生きる教えを信じることではないでしょうか？　その時々に応じて適当に、ある時は神道で、ある時は仏教で、と儀式を行える人は、無神論者と言ってもいいと思います。そして現代の日本では無神論が大多数を占めていると思われます。だからこそ、無神論者の立場から見れば、一人や二人神様が増えてもごたごた言わないということになるのだと思います。しかし、一人の人間として、この世界に生まれてきたこと、そして生きていくこと、そしていずれは、死んでいくことを真面目に考えれば、宗教的な信念、思想、と呼ばれているものを求めるのでは、ないでしょうか。「人はパンのみにて生きる者にあらず」（聖書；ルか伝４－４） というのは、本当ではないでしょうか。<br />
宗教とは本来、非寛容なものだ、とある人は書いています。宗教とは生きていく上での信念とすれば、他人がどう思おうと、人は自分自身の内なる信念で生きるしかありません。それが他人の信念と異なっていても、それはそれで仕方のないことであって、「和をもって尊しとする」を第一として生きるべきだと言ってみたところで、和ということを第一として生きられない人間は山といるでしょう。他人の立場を認めつつ、和を考慮しつつ、自分が一番大切だと思うことを守りつつ生きるという生き方しか出来ないのではないでしょうか。</p>
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	</item>
	<item>
		<title>いまさらですが… より 日本は寛容で？　　　茄子作　九 へのコメント</title>
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		<dc:creator>いまさらですが…</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 26 Nov 2010 05:15:18 +0000</pubDate>
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		<description>世界的に見れば日本の「宗教」は寛容な方じゃないですか？
基本的に八百万の神の国の住人は一人や二人神様が増えたってごたごた言いません。

ただ、日本の社会のルールにそぐわないと反発を受けるのは当たり前です。
教えられたものを唯々諾々と受け入れるのではなく、今までの文化に反しないように解釈して同化するのが日本ですよ。


キリスト教系の弾圧(江戸時代、戦争当時とか)についていえば、教義にも宗教そのものにもあまり関係ないと思いますよ。

当時キリスト教の宣教師は植民地支配を企む本国からの先発隊を担う側面もありました(実際に植民地化された世界の国を見ても明らかですよね)。
また、キリスト教以外の神や偶像崇拝を攻撃しました。
天皇や将軍が神格化される文化のある国では｢政治的に｣弾圧されても仕方ないと思います。

さらに言えば、
もちろんご存じだと思いますが、当時日本に来ていた宣教師は本国に日本人を奴隷として送る「奴隷貿易」「人身売買」を｢大々的に｣行っていました(主に九州)。

人身売買や寺社仏閣の破壊を｢先に｣行ったのはキリスト教国の人なのです。

植民地支配が普通なところでは何の違和感もないのでしょうが、日本では危険思想認定をされても仕方ないと思います。

キリスト教そのものが悪いわけではないと思いますが、侵略の先鋒に宗教を利用した本国の王様が諸悪の根源だと思います。

キリスト教以外の「飛鳥時代は物部・蘇我の宗教戦争、平安時代の最澄・空海の絶交、鎌倉時代の弾圧・法難」の辺りは、
確かに「教義的な」対立なので「日本の宗教は包容的」ではないのかもしれません。

でも、そこに｢キリスト教｣を含めるのは上記の理由で納得できません。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>世界的に見れば日本の「宗教」は寛容な方じゃないですか？<br />
基本的に八百万の神の国の住人は一人や二人神様が増えたってごたごた言いません。</p>
<p>ただ、日本の社会のルールにそぐわないと反発を受けるのは当たり前です。<br />
教えられたものを唯々諾々と受け入れるのではなく、今までの文化に反しないように解釈して同化するのが日本ですよ。</p>
<p>キリスト教系の弾圧(江戸時代、戦争当時とか)についていえば、教義にも宗教そのものにもあまり関係ないと思いますよ。</p>
<p>当時キリスト教の宣教師は植民地支配を企む本国からの先発隊を担う側面もありました(実際に植民地化された世界の国を見ても明らかですよね)。<br />
また、キリスト教以外の神や偶像崇拝を攻撃しました。<br />
天皇や将軍が神格化される文化のある国では｢政治的に｣弾圧されても仕方ないと思います。</p>
<p>さらに言えば、<br />
もちろんご存じだと思いますが、当時日本に来ていた宣教師は本国に日本人を奴隷として送る「奴隷貿易」「人身売買」を｢大々的に｣行っていました(主に九州)。</p>
<p>人身売買や寺社仏閣の破壊を｢先に｣行ったのはキリスト教国の人なのです。</p>
<p>植民地支配が普通なところでは何の違和感もないのでしょうが、日本では危険思想認定をされても仕方ないと思います。</p>
<p>キリスト教そのものが悪いわけではないと思いますが、侵略の先鋒に宗教を利用した本国の王様が諸悪の根源だと思います。</p>
<p>キリスト教以外の「飛鳥時代は物部・蘇我の宗教戦争、平安時代の最澄・空海の絶交、鎌倉時代の弾圧・法難」の辺りは、<br />
確かに「教義的な」対立なので「日本の宗教は包容的」ではないのかもしれません。</p>
<p>でも、そこに｢キリスト教｣を含めるのは上記の理由で納得できません。</p>
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	</item>
	<item>
		<title>　old age より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-297</link>
		<dc:creator>　old age</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 05 Nov 2010 05:37:09 +0000</pubDate>
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		<description>「　日暮れて
　　我が魂はいとさびし
　　寄るべなき身の頼る
　　主よともに宿りませ　」

　　 何処かの、賛美歌の歌詞でしょうか？
　　　映画の字幕に出てきました。
　</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「　日暮れて<br />
　　我が魂はいとさびし<br />
　　寄るべなき身の頼る<br />
　　主よともに宿りませ　」</p>
<p>　　 何処かの、賛美歌の歌詞でしょうか？<br />
　　　映画の字幕に出てきました。<br />
　</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>suzuka より 言葉　　(好きなことば、印象に残ったことば、支えになってくれたことば、など） へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e7%a7%81%e3%81%ae%e3%81%99%e3%81%8d%e3%81%aa%e8%a8%80%e8%91%89/#comment-294</link>
		<dc:creator>suzuka</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 27 Oct 2010 16:10:39 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=167#comment-294</guid>
		<description>「我々は、自分が漂っているこの騒乱の海を、見ないであろうか。我々、はまさに一番内面的な一点で駄目になった・支えのない・おびやかされた人間ではないであろうか。またそれ故にこそ、我々はあらゆる外面的な点でも、確固としていることができないのである。それ故にこそ、我々のかくも思い煩いに充ちた日々があり、かくも不安な夜々があるのである。・・・・・・・・・
この世は、そのあらゆる問と謎をたずさえつつ、神の御手の中に抱かれている。従って謎と苦しみが究極のものではない。そうではなくて、この神の御手こそ究極のものなのである。」
　（トゥルナイゼン「小説教」より）</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「我々は、自分が漂っているこの騒乱の海を、見ないであろうか。我々、はまさに一番内面的な一点で駄目になった・支えのない・おびやかされた人間ではないであろうか。またそれ故にこそ、我々はあらゆる外面的な点でも、確固としていることができないのである。それ故にこそ、我々のかくも思い煩いに充ちた日々があり、かくも不安な夜々があるのである。・・・・・・・・・<br />
この世は、そのあらゆる問と謎をたずさえつつ、神の御手の中に抱かれている。従って謎と苦しみが究極のものではない。そうではなくて、この神の御手こそ究極のものなのである。」<br />
　（トゥルナイゼン「小説教」より）</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　old age より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-206</link>
		<dc:creator>　old age</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 12 Jul 2010 03:33:40 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=177#comment-206</guid>
		<description>自分が老いの入り口に立っていることが、よく分かる日々である。
正直、この年まで生きるとは、若い頃は想像していなかった。
もっと早く、何処かで、のたれ死にすることになるだろうと思っていた。
だから、この老いの日々には、戸惑いを感じる。
もう、十分生きたような気がする。
成すべき何が残っているというのだろう。
だが、５０代の頃は、仕事から解放されて、早くのんびりしたいと願った。
そして、今、それが叶えられたというのに、この空白感は何なのか。

私にはこの世界が自然に、偶然にできたとは、思えない。
宇宙の姿も、人間のからだも、あまりに精巧にできているからだ。
しかし、この世界が何故存在しているのかは分からない。
星々も、人間も存在しなければならない、必然性はないように思える。
もしかすると、これは創造主のお遊びかもしれない。
過去に、何百億年、何兆年、いやその１０の何乗年という時間が流れて来たことだろう。
創造主も暇をもてあまされて、このようなものを造られたのかもしれない。

この世界は恐ろしい世界である。
今の不況などは序の口である。
歴史を少しでも見れば明らかである。
戦争に次ぐ戦争で、歴史は血に染まっている。
人間は虫けらのように、殺されている。
このようなことも、創造主のお遊びと考える理由である。
若い人達は日々の生活に追われて、こんなことを考える暇はないだろう。
だが、余計なことを考えず、目先のことを追って生きるのが幸せに生きるコツである。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>自分が老いの入り口に立っていることが、よく分かる日々である。<br />
正直、この年まで生きるとは、若い頃は想像していなかった。<br />
もっと早く、何処かで、のたれ死にすることになるだろうと思っていた。<br />
だから、この老いの日々には、戸惑いを感じる。<br />
もう、十分生きたような気がする。<br />
成すべき何が残っているというのだろう。<br />
だが、５０代の頃は、仕事から解放されて、早くのんびりしたいと願った。<br />
そして、今、それが叶えられたというのに、この空白感は何なのか。</p>
<p>私にはこの世界が自然に、偶然にできたとは、思えない。<br />
宇宙の姿も、人間のからだも、あまりに精巧にできているからだ。<br />
しかし、この世界が何故存在しているのかは分からない。<br />
星々も、人間も存在しなければならない、必然性はないように思える。<br />
もしかすると、これは創造主のお遊びかもしれない。<br />
過去に、何百億年、何兆年、いやその１０の何乗年という時間が流れて来たことだろう。<br />
創造主も暇をもてあまされて、このようなものを造られたのかもしれない。</p>
<p>この世界は恐ろしい世界である。<br />
今の不況などは序の口である。<br />
歴史を少しでも見れば明らかである。<br />
戦争に次ぐ戦争で、歴史は血に染まっている。<br />
人間は虫けらのように、殺されている。<br />
このようなことも、創造主のお遊びと考える理由である。<br />
若い人達は日々の生活に追われて、こんなことを考える暇はないだろう。<br />
だが、余計なことを考えず、目先のことを追って生きるのが幸せに生きるコツである。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　suzuka より 進化論について へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e9%80%b2%e5%8c%96%e8%ab%96%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/#comment-53</link>
		<dc:creator>　suzuka</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 24 Dec 2009 22:52:23 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=215#comment-53</guid>
		<description>〈　ダーウィン進化論への批判 〉

長い時間をかけて突然変異によって、あらゆる生物が偶然に作られるという仮説に対し；

「この理論は、レンガをデタラメに積み上げて放っておくと、城やギリシャの神殿が勝手に出来上がったというに等しい」
　アルバート・セント・ジョルジ（ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者、1893～1986）

「宇宙の年齢を１００億年としても、進化した哺乳類の細胞核に含まれる２０００個もの遺伝子ができるチャンスを考えると、この時間は決して充分ではない。突然変異で今ある遺伝子情報のように複雑で整然としたシステムができる確率は、竜巻がゴミ屑を巻き上げたらジェット機ができたというようなものだ」
　フレッド・ホイル　（イギリスの宇宙物理学者、1915～2001）

「生物が進化するためには、生物の設計図である遺伝子が変化しなくてはならない。ダーウィン進化論ではいまのところ、遺伝子の変化もアトランダムな突然変異に頼っている。アトランダムということは偶然という意味である。
こうした偶然の突然変異と自然淘汰による爬虫類から鳥類への進化を、自動車を改良して飛行機を開発するプロジェクトにたとえてみると、ある自動車の部品をアトランダムに取り替えたり、構造を無目的に改造したりしているうちに、いつのまにか飛行機ができあがってしまったということになる」
　佐川、中原著「進化論が変わる」より

自然淘汰の定義に対し；

「動物における適者というのは、必ずしもその動物が健康で強いということではない。本質的には、子孫をたくさん残すということだけだ。事実、自然淘汰の原理は“多くの子孫を残すであろう固体は、多くの子孫を残す”という一言に尽きる。だが、これでは何も言わないに等しい」
　C・H・ウォディントン（イギリスの生物学者、1905～1975）

自然淘汰は恒常的に進むという理論に対し；

「自然淘汰とは、自然の力によって行われる没個性的な作用である。だから、将来必ず役に立つ器官になる、今はその途中だ等と言い訳してみても、今、役に立たなければ淘汰されてしまうはずである。遠い将来のことなど、まるで関係ないはずではないか」
　ノーマン・マクベス（アメリカ、「ダーウィン再考」〔1971〕の著者）

「器官の進化の途中で顎半分とか翼半分あっても、何の役にも立たないではないか」
　スチーブン・グールド　（ハーバード大学の生物学者、1941～2002）

　眼の発生に対して；

「目について触れられると、どう考えていいかわからず、ぞっとする気持ちを抑えられない・・・眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調節したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られると考えるのは、まったく無理であることを私自身認めざるをえない」
　チャールズ・ダーウィン（イギリス、1809～1882 ）

「眼は涙腺や瞼等さまざまな部分からなり、すべてが同時に機能するような完成品になった場合にしか役に立たない。ところが、眼の進化過程の初期段階、各部分はまったく未発達で機能の調和がとれず、存在意味はなかったはずだが、それでは自然淘汰はどうなっていたのか。自然淘汰というものは、器官が最終的にどんな発達を遂げるかはお構いなしに起こる、冷厳なる現象のはずである。」
　ガートルード・ヒンメルファーブ　（アメリカ、歴史家、1922～）

等、等、等　・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>〈　ダーウィン進化論への批判 〉</p>
<p>長い時間をかけて突然変異によって、あらゆる生物が偶然に作られるという仮説に対し；</p>
<p>「この理論は、レンガをデタラメに積み上げて放っておくと、城やギリシャの神殿が勝手に出来上がったというに等しい」<br />
　アルバート・セント・ジョルジ（ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者、1893～1986）</p>
<p>「宇宙の年齢を１００億年としても、進化した哺乳類の細胞核に含まれる２０００個もの遺伝子ができるチャンスを考えると、この時間は決して充分ではない。突然変異で今ある遺伝子情報のように複雑で整然としたシステムができる確率は、竜巻がゴミ屑を巻き上げたらジェット機ができたというようなものだ」<br />
　フレッド・ホイル　（イギリスの宇宙物理学者、1915～2001）</p>
<p>「生物が進化するためには、生物の設計図である遺伝子が変化しなくてはならない。ダーウィン進化論ではいまのところ、遺伝子の変化もアトランダムな突然変異に頼っている。アトランダムということは偶然という意味である。<br />
こうした偶然の突然変異と自然淘汰による爬虫類から鳥類への進化を、自動車を改良して飛行機を開発するプロジェクトにたとえてみると、ある自動車の部品をアトランダムに取り替えたり、構造を無目的に改造したりしているうちに、いつのまにか飛行機ができあがってしまったということになる」<br />
　佐川、中原著「進化論が変わる」より</p>
<p>自然淘汰の定義に対し；</p>
<p>「動物における適者というのは、必ずしもその動物が健康で強いということではない。本質的には、子孫をたくさん残すということだけだ。事実、自然淘汰の原理は“多くの子孫を残すであろう固体は、多くの子孫を残す”という一言に尽きる。だが、これでは何も言わないに等しい」<br />
　C・H・ウォディントン（イギリスの生物学者、1905～1975）</p>
<p>自然淘汰は恒常的に進むという理論に対し；</p>
<p>「自然淘汰とは、自然の力によって行われる没個性的な作用である。だから、将来必ず役に立つ器官になる、今はその途中だ等と言い訳してみても、今、役に立たなければ淘汰されてしまうはずである。遠い将来のことなど、まるで関係ないはずではないか」<br />
　ノーマン・マクベス（アメリカ、「ダーウィン再考」〔1971〕の著者）</p>
<p>「器官の進化の途中で顎半分とか翼半分あっても、何の役にも立たないではないか」<br />
　スチーブン・グールド　（ハーバード大学の生物学者、1941～2002）</p>
<p>　眼の発生に対して；</p>
<p>「目について触れられると、どう考えていいかわからず、ぞっとする気持ちを抑えられない・・・眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調節したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られると考えるのは、まったく無理であることを私自身認めざるをえない」<br />
　チャールズ・ダーウィン（イギリス、1809～1882 ）</p>
<p>「眼は涙腺や瞼等さまざまな部分からなり、すべてが同時に機能するような完成品になった場合にしか役に立たない。ところが、眼の進化過程の初期段階、各部分はまったく未発達で機能の調和がとれず、存在意味はなかったはずだが、それでは自然淘汰はどうなっていたのか。自然淘汰というものは、器官が最終的にどんな発達を遂げるかはお構いなしに起こる、冷厳なる現象のはずである。」<br />
　ガートルード・ヒンメルファーブ　（アメリカ、歴史家、1922～）</p>
<p>等、等、等　・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>
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	</item>
	<item>
		<title>　ありふれた奇跡 より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-32</link>
		<dc:creator>　ありふれた奇跡</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 Apr 2009 12:38:43 +0000</pubDate>
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		<description>最近、フジテレビ系で「ありふれた奇跡」という山田太一脚本のテレビドラマを見た。よくできた作品だったと思う。役者もうまかった。このドラマの内容とは関係のないことだが、我々一人一人の存在も「ありふれた奇跡」ではないだろうか？自分から望みもしないのに、この世界に産み落とされ、訳も分からないまま、とにかく唯ひたすら生き続けることが当たり前のように生き、そしてまた、訳が分からないままこの世界から消え去っていく運命にあるのだ。
聖書の中には奇跡の話がよく出てくる。キリストが盲人の目を見えるようにしたとか、歩けない人が歩けるようになったとか、死者が生き返ったとか、他にも処女がみごもったとか。私がまだ若かった頃、キリスト教会に行っていた時のことだが、クリスマスの時に処女降誕について母は私に皮肉を込めて言ったものだ、「そんなバカなことがなあ」と。そう、そんなバカなことと思えることが聖書にはいくらでも書かれているのだ。私も最初の頃は思った。そんなことがありうるはずがない。これは何かを象徴的に語っているのに違いない、と。
だが、偉そうなことを言ってみたところで、我々人間の知り得ることなどたかがしれている。このような奇跡がすべて本当に起こっていたとしても、それがどうしたというのだ。我々一人一人の人間がこの世界に突然出現したことを考えれば、それほど驚くにはあたらない。
真夜中に、ふと目覚めて眠れなくなってしまった時、昼間では非常識に思えるような考えが浮かんでくることがよくあるものだ。太陽の下では何もかもが、当たり前のように存在し、動き回っているように見える。だが、少なくとも宇宙の真実の姿は昼間ではなく、真夜中にこそ見えるものだ。まぶしい太陽の下では、無数の星は存在しているにも拘わらず、見ることはできない。真夜中に闇の中に光る星々こそ、宇宙の真実の姿なのだ。
絵を描く心とは、見えるものを通して見えないものを描くことだという。我々は見えるものの存在は疑わない。しかし見えないものでも、存在しているものも多くあるにちがいない。現に重力は見えないし、心も見えない。それが元になった現象だけが見えるにすぎない。かってソ連の宇宙飛行士が宇宙のどこにも神はいなかった、というようなことを言ったが、神が人間の目に見えると考える方がどうかしている。優秀な科学者だろうに、愚かなことを言ったものだ。
要するに、我々は日々奇跡が周りに満ちているような世界に生きていながら、そのことに無感覚になってしまって、ありふれた、あたりまえの世界に生きていると思い込んでいるのではないのか、ということである。　</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>最近、フジテレビ系で「ありふれた奇跡」という山田太一脚本のテレビドラマを見た。よくできた作品だったと思う。役者もうまかった。このドラマの内容とは関係のないことだが、我々一人一人の存在も「ありふれた奇跡」ではないだろうか？自分から望みもしないのに、この世界に産み落とされ、訳も分からないまま、とにかく唯ひたすら生き続けることが当たり前のように生き、そしてまた、訳が分からないままこの世界から消え去っていく運命にあるのだ。<br />
聖書の中には奇跡の話がよく出てくる。キリストが盲人の目を見えるようにしたとか、歩けない人が歩けるようになったとか、死者が生き返ったとか、他にも処女がみごもったとか。私がまだ若かった頃、キリスト教会に行っていた時のことだが、クリスマスの時に処女降誕について母は私に皮肉を込めて言ったものだ、「そんなバカなことがなあ」と。そう、そんなバカなことと思えることが聖書にはいくらでも書かれているのだ。私も最初の頃は思った。そんなことがありうるはずがない。これは何かを象徴的に語っているのに違いない、と。<br />
だが、偉そうなことを言ってみたところで、我々人間の知り得ることなどたかがしれている。このような奇跡がすべて本当に起こっていたとしても、それがどうしたというのだ。我々一人一人の人間がこの世界に突然出現したことを考えれば、それほど驚くにはあたらない。<br />
真夜中に、ふと目覚めて眠れなくなってしまった時、昼間では非常識に思えるような考えが浮かんでくることがよくあるものだ。太陽の下では何もかもが、当たり前のように存在し、動き回っているように見える。だが、少なくとも宇宙の真実の姿は昼間ではなく、真夜中にこそ見えるものだ。まぶしい太陽の下では、無数の星は存在しているにも拘わらず、見ることはできない。真夜中に闇の中に光る星々こそ、宇宙の真実の姿なのだ。<br />
絵を描く心とは、見えるものを通して見えないものを描くことだという。我々は見えるものの存在は疑わない。しかし見えないものでも、存在しているものも多くあるにちがいない。現に重力は見えないし、心も見えない。それが元になった現象だけが見えるにすぎない。かってソ連の宇宙飛行士が宇宙のどこにも神はいなかった、というようなことを言ったが、神が人間の目に見えると考える方がどうかしている。優秀な科学者だろうに、愚かなことを言ったものだ。<br />
要するに、我々は日々奇跡が周りに満ちているような世界に生きていながら、そのことに無感覚になってしまって、ありふれた、あたりまえの世界に生きていると思い込んでいるのではないのか、ということである。　</p>
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