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	<title>日本長老教会　礎(いしずえ)キリスト教会 へのコメント</title>
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	<description>名古屋市守山区にあるキリスト教会です。カルヴァンによる宗教改革の伝統を受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。</description>
	<pubDate>Fri, 30 Jul 2010 03:19:08 +0000</pubDate>
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		<title>　old age より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
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		<dc:creator>　old age</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 12 Jul 2010 03:33:40 +0000</pubDate>
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		<description>自分が老いの入り口に立っていることが、よく分かる日々である。
正直、この年まで生きるとは、若い頃は想像していなかった。
もっと早く、何処かで、のたれ死にすることになるだろうと思っていた。
だから、この老いの日々には、戸惑いを感じる。
もう、十分生きたような気がする。
成すべき何が残っているというのだろう。
だが、５０代の頃は、仕事から解放されて、早くのんびりしたいと願った。
そして、今、それが叶えられたというのに、この空白感は何なのか。

私にはこの世界が自然に、偶然にできたとは、思えない。
宇宙の姿も、人間のからだも、あまりに精巧にできているからだ。
しかし、この世界が何故存在しているのかは分からない。
星々も、人間も存在しなければならない、必然性はないように思える。
もしかすると、これは創造主のお遊びかもしれない。
過去に、何百億年、何兆年、いやその１０の何乗年という時間が流れて来たことだろう。
創造主も暇をもてあまされて、このようなものを造られたのかもしれない。

この世界は恐ろしい世界である。
今の不況などは序の口である。
歴史を少しでも見れば明らかである。
戦争に次ぐ戦争で、歴史は血に染まっている。
人間は虫けらのように、殺されている。
このようなことも、創造主のお遊びと考える理由である。
若い人達は日々の生活に追われて、こんなことを考える暇はないだろう。
だが、余計なことを考えず、目先のことを追って生きるのが幸せに生きるコツである。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>自分が老いの入り口に立っていることが、よく分かる日々である。<br />
正直、この年まで生きるとは、若い頃は想像していなかった。<br />
もっと早く、何処かで、のたれ死にすることになるだろうと思っていた。<br />
だから、この老いの日々には、戸惑いを感じる。<br />
もう、十分生きたような気がする。<br />
成すべき何が残っているというのだろう。<br />
だが、５０代の頃は、仕事から解放されて、早くのんびりしたいと願った。<br />
そして、今、それが叶えられたというのに、この空白感は何なのか。</p>
<p>私にはこの世界が自然に、偶然にできたとは、思えない。<br />
宇宙の姿も、人間のからだも、あまりに精巧にできているからだ。<br />
しかし、この世界が何故存在しているのかは分からない。<br />
星々も、人間も存在しなければならない、必然性はないように思える。<br />
もしかすると、これは創造主のお遊びかもしれない。<br />
過去に、何百億年、何兆年、いやその１０の何乗年という時間が流れて来たことだろう。<br />
創造主も暇をもてあまされて、このようなものを造られたのかもしれない。</p>
<p>この世界は恐ろしい世界である。<br />
今の不況などは序の口である。<br />
歴史を少しでも見れば明らかである。<br />
戦争に次ぐ戦争で、歴史は血に染まっている。<br />
人間は虫けらのように、殺されている。<br />
このようなことも、創造主のお遊びと考える理由である。<br />
若い人達は日々の生活に追われて、こんなことを考える暇はないだろう。<br />
だが、余計なことを考えず、目先のことを追って生きるのが幸せに生きるコツである。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　suzuka より 進化論について へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e9%80%b2%e5%8c%96%e8%ab%96%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/#comment-53</link>
		<dc:creator>　suzuka</dc:creator>
		<pubDate>Thu, 24 Dec 2009 22:52:23 +0000</pubDate>
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		<description>〈　ダーウィン進化論への批判 〉

長い時間をかけて突然変異によって、あらゆる生物が偶然に作られるという仮説に対し；

「この理論は、レンガをデタラメに積み上げて放っておくと、城やギリシャの神殿が勝手に出来上がったというに等しい」
　アルバート・セント・ジョルジ（ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者、1893～1986）

「宇宙の年齢を１００億年としても、進化した哺乳類の細胞核に含まれる２０００個もの遺伝子ができるチャンスを考えると、この時間は決して充分ではない。突然変異で今ある遺伝子情報のように複雑で整然としたシステムができる確率は、竜巻がゴミ屑を巻き上げたらジェット機ができたというようなものだ」
　フレッド・ホイル　（イギリスの宇宙物理学者、1915～2001）

「生物が進化するためには、生物の設計図である遺伝子が変化しなくてはならない。ダーウィン進化論ではいまのところ、遺伝子の変化もアトランダムな突然変異に頼っている。アトランダムということは偶然という意味である。
こうした偶然の突然変異と自然淘汰による爬虫類から鳥類への進化を、自動車を改良して飛行機を開発するプロジェクトにたとえてみると、ある自動車の部品をアトランダムに取り替えたり、構造を無目的に改造したりしているうちに、いつのまにか飛行機ができあがってしまったということになる」
　佐川、中原著「進化論が変わる」より

自然淘汰の定義に対し；

「動物における適者というのは、必ずしもその動物が健康で強いということではない。本質的には、子孫をたくさん残すということだけだ。事実、自然淘汰の原理は“多くの子孫を残すであろう固体は、多くの子孫を残す”という一言に尽きる。だが、これでは何も言わないに等しい」
　C・H・ウォディントン（イギリスの生物学者、1905～1975）

自然淘汰は恒常的に進むという理論に対し；

「自然淘汰とは、自然の力によって行われる没個性的な作用である。だから、将来必ず役に立つ器官になる、今はその途中だ等と言い訳してみても、今、役に立たなければ淘汰されてしまうはずである。遠い将来のことなど、まるで関係ないはずではないか」
　ノーマン・マクベス（アメリカ、「ダーウィン再考」〔1971〕の著者）

「器官の進化の途中で顎半分とか翼半分あっても、何の役にも立たないではないか」
　スチーブン・グールド　（ハーバード大学の生物学者、1941～2002）

　眼の発生に対して；

「目について触れられると、どう考えていいかわからず、ぞっとする気持ちを抑えられない・・・眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調節したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られると考えるのは、まったく無理であることを私自身認めざるをえない」
　チャールズ・ダーウィン（イギリス、1809～1882 ）

「眼は涙腺や瞼等さまざまな部分からなり、すべてが同時に機能するような完成品になった場合にしか役に立たない。ところが、眼の進化過程の初期段階、各部分はまったく未発達で機能の調和がとれず、存在意味はなかったはずだが、それでは自然淘汰はどうなっていたのか。自然淘汰というものは、器官が最終的にどんな発達を遂げるかはお構いなしに起こる、冷厳なる現象のはずである。」
　ガートルード・ヒンメルファーブ　（アメリカ、歴史家、1922～）

等、等、等　・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>〈　ダーウィン進化論への批判 〉</p>
<p>長い時間をかけて突然変異によって、あらゆる生物が偶然に作られるという仮説に対し；</p>
<p>「この理論は、レンガをデタラメに積み上げて放っておくと、城やギリシャの神殿が勝手に出来上がったというに等しい」<br />
　アルバート・セント・ジョルジ（ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者、1893～1986）</p>
<p>「宇宙の年齢を１００億年としても、進化した哺乳類の細胞核に含まれる２０００個もの遺伝子ができるチャンスを考えると、この時間は決して充分ではない。突然変異で今ある遺伝子情報のように複雑で整然としたシステムができる確率は、竜巻がゴミ屑を巻き上げたらジェット機ができたというようなものだ」<br />
　フレッド・ホイル　（イギリスの宇宙物理学者、1915～2001）</p>
<p>「生物が進化するためには、生物の設計図である遺伝子が変化しなくてはならない。ダーウィン進化論ではいまのところ、遺伝子の変化もアトランダムな突然変異に頼っている。アトランダムということは偶然という意味である。<br />
こうした偶然の突然変異と自然淘汰による爬虫類から鳥類への進化を、自動車を改良して飛行機を開発するプロジェクトにたとえてみると、ある自動車の部品をアトランダムに取り替えたり、構造を無目的に改造したりしているうちに、いつのまにか飛行機ができあがってしまったということになる」<br />
　佐川、中原著「進化論が変わる」より</p>
<p>自然淘汰の定義に対し；</p>
<p>「動物における適者というのは、必ずしもその動物が健康で強いということではない。本質的には、子孫をたくさん残すということだけだ。事実、自然淘汰の原理は“多くの子孫を残すであろう固体は、多くの子孫を残す”という一言に尽きる。だが、これでは何も言わないに等しい」<br />
　C・H・ウォディントン（イギリスの生物学者、1905～1975）</p>
<p>自然淘汰は恒常的に進むという理論に対し；</p>
<p>「自然淘汰とは、自然の力によって行われる没個性的な作用である。だから、将来必ず役に立つ器官になる、今はその途中だ等と言い訳してみても、今、役に立たなければ淘汰されてしまうはずである。遠い将来のことなど、まるで関係ないはずではないか」<br />
　ノーマン・マクベス（アメリカ、「ダーウィン再考」〔1971〕の著者）</p>
<p>「器官の進化の途中で顎半分とか翼半分あっても、何の役にも立たないではないか」<br />
　スチーブン・グールド　（ハーバード大学の生物学者、1941～2002）</p>
<p>　眼の発生に対して；</p>
<p>「目について触れられると、どう考えていいかわからず、ぞっとする気持ちを抑えられない・・・眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調節したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られると考えるのは、まったく無理であることを私自身認めざるをえない」<br />
　チャールズ・ダーウィン（イギリス、1809～1882 ）</p>
<p>「眼は涙腺や瞼等さまざまな部分からなり、すべてが同時に機能するような完成品になった場合にしか役に立たない。ところが、眼の進化過程の初期段階、各部分はまったく未発達で機能の調和がとれず、存在意味はなかったはずだが、それでは自然淘汰はどうなっていたのか。自然淘汰というものは、器官が最終的にどんな発達を遂げるかはお構いなしに起こる、冷厳なる現象のはずである。」<br />
　ガートルード・ヒンメルファーブ　（アメリカ、歴史家、1922～）</p>
<p>等、等、等　・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　ありふれた奇跡 より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-32</link>
		<dc:creator>　ありふれた奇跡</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 Apr 2009 12:38:43 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=177#comment-32</guid>
		<description>最近、フジテレビ系で「ありふれた奇跡」という山田太一脚本のテレビドラマを見た。よくできた作品だったと思う。役者もうまかった。このドラマの内容とは関係のないことだが、我々一人一人の存在も「ありふれた奇跡」ではないだろうか？自分から望みもしないのに、この世界に産み落とされ、訳も分からないまま、とにかく唯ひたすら生き続けることが当たり前のように生き、そしてまた、訳が分からないままこの世界から消え去っていく運命にあるのだ。
聖書の中には奇跡の話がよく出てくる。キリストが盲人の目を見えるようにしたとか、歩けない人が歩けるようになったとか、死者が生き返ったとか、他にも処女がみごもったとか。私がまだ若かった頃、キリスト教会に行っていた時のことだが、クリスマスの時に処女降誕について母は私に皮肉を込めて言ったものだ、「そんなバカなことがなあ」と。そう、そんなバカなことと思えることが聖書にはいくらでも書かれているのだ。私も最初の頃は思った。そんなことがありうるはずがない。これは何かを象徴的に語っているのに違いない、と。
だが、偉そうなことを言ってみたところで、我々人間の知り得ることなどたかがしれている。このような奇跡がすべて本当に起こっていたとしても、それがどうしたというのだ。我々一人一人の人間がこの世界に突然出現したことを考えれば、それほど驚くにはあたらない。
真夜中に、ふと目覚めて眠れなくなってしまった時、昼間では非常識に思えるような考えが浮かんでくることがよくあるものだ。太陽の下では何もかもが、当たり前のように存在し、動き回っているように見える。だが、少なくとも宇宙の真実の姿は昼間ではなく、真夜中にこそ見えるものだ。まぶしい太陽の下では、無数の星は存在しているにも拘わらず、見ることはできない。真夜中に闇の中に光る星々こそ、宇宙の真実の姿なのだ。
絵を描く心とは、見えるものを通して見えないものを描くことだという。我々は見えるものの存在は疑わない。しかし見えないものでも、存在しているものも多くあるにちがいない。現に重力は見えないし、心も見えない。それが元になった現象だけが見えるにすぎない。かってソ連の宇宙飛行士が宇宙のどこにも神はいなかった、というようなことを言ったが、神が人間の目に見えると考える方がどうかしている。優秀な科学者だろうに、愚かなことを言ったものだ。
要するに、我々は日々奇跡が周りに満ちているような世界に生きていながら、そのことに無感覚になってしまって、ありふれた、あたりまえの世界に生きていると思い込んでいるのではないのか、ということである。　</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>最近、フジテレビ系で「ありふれた奇跡」という山田太一脚本のテレビドラマを見た。よくできた作品だったと思う。役者もうまかった。このドラマの内容とは関係のないことだが、我々一人一人の存在も「ありふれた奇跡」ではないだろうか？自分から望みもしないのに、この世界に産み落とされ、訳も分からないまま、とにかく唯ひたすら生き続けることが当たり前のように生き、そしてまた、訳が分からないままこの世界から消え去っていく運命にあるのだ。<br />
聖書の中には奇跡の話がよく出てくる。キリストが盲人の目を見えるようにしたとか、歩けない人が歩けるようになったとか、死者が生き返ったとか、他にも処女がみごもったとか。私がまだ若かった頃、キリスト教会に行っていた時のことだが、クリスマスの時に処女降誕について母は私に皮肉を込めて言ったものだ、「そんなバカなことがなあ」と。そう、そんなバカなことと思えることが聖書にはいくらでも書かれているのだ。私も最初の頃は思った。そんなことがありうるはずがない。これは何かを象徴的に語っているのに違いない、と。<br />
だが、偉そうなことを言ってみたところで、我々人間の知り得ることなどたかがしれている。このような奇跡がすべて本当に起こっていたとしても、それがどうしたというのだ。我々一人一人の人間がこの世界に突然出現したことを考えれば、それほど驚くにはあたらない。<br />
真夜中に、ふと目覚めて眠れなくなってしまった時、昼間では非常識に思えるような考えが浮かんでくることがよくあるものだ。太陽の下では何もかもが、当たり前のように存在し、動き回っているように見える。だが、少なくとも宇宙の真実の姿は昼間ではなく、真夜中にこそ見えるものだ。まぶしい太陽の下では、無数の星は存在しているにも拘わらず、見ることはできない。真夜中に闇の中に光る星々こそ、宇宙の真実の姿なのだ。<br />
絵を描く心とは、見えるものを通して見えないものを描くことだという。我々は見えるものの存在は疑わない。しかし見えないものでも、存在しているものも多くあるにちがいない。現に重力は見えないし、心も見えない。それが元になった現象だけが見えるにすぎない。かってソ連の宇宙飛行士が宇宙のどこにも神はいなかった、というようなことを言ったが、神が人間の目に見えると考える方がどうかしている。優秀な科学者だろうに、愚かなことを言ったものだ。<br />
要するに、我々は日々奇跡が周りに満ちているような世界に生きていながら、そのことに無感覚になってしまって、ありふれた、あたりまえの世界に生きていると思い込んでいるのではないのか、ということである。　</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　suzuka より 言葉　　(好きなことば、印象に残ったことば、支えになってくれたことば、など） へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e7%a7%81%e3%81%ae%e3%81%99%e3%81%8d%e3%81%aa%e8%a8%80%e8%91%89/#comment-31</link>
		<dc:creator>　suzuka</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 06 Jan 2009 13:00:50 +0000</pubDate>
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		<description>「救い全体が、過去にも現在にも未来にも、一つの基盤を持っている。その基盤は私たちの信仰ではない。もし私たちがここで混乱すると、完全に混乱してしまう。人は決して自分自身の信仰に基づいて義とされることはできない。救いの全体を通じて唯一の基盤は、歴史における、イエス・キリストの十字架上の完成されたみわざである。信仰とは、私たちが神の無代価の賜物を受ける手段である空の手である。」
　（フランシス・Ａ・シェーファー著「真に霊的であること」より）

私たち人間の感情は変わり易いものです。気分の良い日は、自分も天国入りの仲間に入れそうだと思うこともありますが、逆に心が晴れない日が続くと、やはり神に見放されてしまったのか、と思ったりします。いつも変わることのないものに、目を向けなければ、と思います。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>「救い全体が、過去にも現在にも未来にも、一つの基盤を持っている。その基盤は私たちの信仰ではない。もし私たちがここで混乱すると、完全に混乱してしまう。人は決して自分自身の信仰に基づいて義とされることはできない。救いの全体を通じて唯一の基盤は、歴史における、イエス・キリストの十字架上の完成されたみわざである。信仰とは、私たちが神の無代価の賜物を受ける手段である空の手である。」<br />
　（フランシス・Ａ・シェーファー著「真に霊的であること」より）</p>
<p>私たち人間の感情は変わり易いものです。気分の良い日は、自分も天国入りの仲間に入れそうだと思うこともありますが、逆に心が晴れない日が続くと、やはり神に見放されてしまったのか、と思ったりします。いつも変わることのないものに、目を向けなければ、と思います。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　有志 より 進化論について へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e9%80%b2%e5%8c%96%e8%ab%96%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/#comment-30</link>
		<dc:creator>　有志</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 15 Dec 2008 13:14:25 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=215#comment-30</guid>
		<description>ここで、進化論者の主張にも耳を傾けることにしましょう。

「ダーウィンニズムは、今や理論ではなく事実そのものである。地球が太陽の周りを回る事実を認める科学者なら誰でも、進化という事実を否定する者はいないだろう」
　　ジュリアン・ハックスリー（イギリスの生物学者・哲学者、1887～1975）

「進化とは、一回きりの出来事であり、再現性がない。脊椎動物を魚に変えることもできなければ、その逆も不可能である。というのも、このような特殊な歴史的現象の研究に実験的手法を使うことは、まず時間的に非常に制限されるからである。つまり、進化論における時間のスケールは、実験する人間の生命をはるかに上回るものである」
　　セオドシウス・ドブジャンスキー（ウクライナ出身、1927年アメリカに移住、遺伝学・進化生物学者、1900～1975）

「いくら進化論の証拠を探しても見つかるまい。化学や物理学で言う証拠を、生物発生学上の問題に関して挙げることは不可能なのだから」
　　　アレキサンドル・オパーリン　（ロシアの生化学者、1894～1980）

最初に引用した、ハックスリーの言葉はよく聞かれる表現だと思いますが、現代の多くの生物学者は、このような威圧的な言葉ではなく、もっと抑制した表現をとることでしょう。それにしても、この言葉は間違っています。現在では、多くの科学者が進化論に疑問を投げかけています。
他の二人は、いずれも実験的な再現性は不可能であり、証拠はないと言っているわけですから、進化論を科学と認めることはできないのは、誰も否定できないと思います。
「科学」という言葉の定義は、現象を観察して、まず仮説をたて、それを実験によって確認されて初めて科学的な真理として認められる、ということです。進化論は仮説の段階でとどまっています。
聖書を信じる創造論者が、創造科学と表現していることが問題にされることがあるようですが、神がすべてを創造されたと主張することも、科学的に証明できませんので、科学とは言えないといわれるのは尤もです。しかし、「創造科学」の意味は“創造論の立場から、進化論を科学的に検証する”と理解すれば問題はないと思われます。
問題なのは、進化論が多数派であることを根拠にして、学校でも進化論を事実であるかのように教えていることです。そして、種内変化までも進化と結び付けようとしていることです。生物学は空想の世界をさまようことなく、検証可能な科学の領域にとどまるべきでしょう。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>ここで、進化論者の主張にも耳を傾けることにしましょう。</p>
<p>「ダーウィンニズムは、今や理論ではなく事実そのものである。地球が太陽の周りを回る事実を認める科学者なら誰でも、進化という事実を否定する者はいないだろう」<br />
　　ジュリアン・ハックスリー（イギリスの生物学者・哲学者、1887～1975）</p>
<p>「進化とは、一回きりの出来事であり、再現性がない。脊椎動物を魚に変えることもできなければ、その逆も不可能である。というのも、このような特殊な歴史的現象の研究に実験的手法を使うことは、まず時間的に非常に制限されるからである。つまり、進化論における時間のスケールは、実験する人間の生命をはるかに上回るものである」<br />
　　セオドシウス・ドブジャンスキー（ウクライナ出身、1927年アメリカに移住、遺伝学・進化生物学者、1900～1975）</p>
<p>「いくら進化論の証拠を探しても見つかるまい。化学や物理学で言う証拠を、生物発生学上の問題に関して挙げることは不可能なのだから」<br />
　　　アレキサンドル・オパーリン　（ロシアの生化学者、1894～1980）</p>
<p>最初に引用した、ハックスリーの言葉はよく聞かれる表現だと思いますが、現代の多くの生物学者は、このような威圧的な言葉ではなく、もっと抑制した表現をとることでしょう。それにしても、この言葉は間違っています。現在では、多くの科学者が進化論に疑問を投げかけています。<br />
他の二人は、いずれも実験的な再現性は不可能であり、証拠はないと言っているわけですから、進化論を科学と認めることはできないのは、誰も否定できないと思います。<br />
「科学」という言葉の定義は、現象を観察して、まず仮説をたて、それを実験によって確認されて初めて科学的な真理として認められる、ということです。進化論は仮説の段階でとどまっています。<br />
聖書を信じる創造論者が、創造科学と表現していることが問題にされることがあるようですが、神がすべてを創造されたと主張することも、科学的に証明できませんので、科学とは言えないといわれるのは尤もです。しかし、「創造科学」の意味は“創造論の立場から、進化論を科学的に検証する”と理解すれば問題はないと思われます。<br />
問題なのは、進化論が多数派であることを根拠にして、学校でも進化論を事実であるかのように教えていることです。そして、種内変化までも進化と結び付けようとしていることです。生物学は空想の世界をさまようことなく、検証可能な科学の領域にとどまるべきでしょう。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>sawaguchi より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-29</link>
		<dc:creator>sawaguchi</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 29 Nov 2008 12:46:43 +0000</pubDate>
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		<description>せせらぎさん
ご質問にお答えします。
まず、焼香に代わるものですが、普通「献花」と言うことで、前に出て行って台の上においてくるようにしています。でも、慶弔学事典を書いている小畑先生は、献花より「飾花」の方がいいのではと提案されています。献花だとややもすると「死者礼拝」につながる心配があるためだと言われています。
　「香典」に対してクリスチャンは「御花料」と書いて出しています。
　また、「ご愁傷様」と、遺族の方に心から同情して口にしたくなる言葉ですが、せせらぎさんもおっしゃっているように、天国への凱旋としての葬儀を考えると教会ではあまりいい言葉ではないようです。私は、天国への旅立ちとわかっていても、しばらくの離別の寂しさ、悲しみは当然の人情ですから、「慰め」「励まし」の言葉を見つけ出して声をかけるようにつとめています。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>せせらぎさん<br />
ご質問にお答えします。<br />
まず、焼香に代わるものですが、普通「献花」と言うことで、前に出て行って台の上においてくるようにしています。でも、慶弔学事典を書いている小畑先生は、献花より「飾花」の方がいいのではと提案されています。献花だとややもすると「死者礼拝」につながる心配があるためだと言われています。<br />
　「香典」に対してクリスチャンは「御花料」と書いて出しています。<br />
　また、「ご愁傷様」と、遺族の方に心から同情して口にしたくなる言葉ですが、せせらぎさんもおっしゃっているように、天国への凱旋としての葬儀を考えると教会ではあまりいい言葉ではないようです。私は、天国への旅立ちとわかっていても、しばらくの離別の寂しさ、悲しみは当然の人情ですから、「慰め」「励まし」の言葉を見つけ出して声をかけるようにつとめています。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>sawaguchi より 進化論について へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e9%80%b2%e5%8c%96%e8%ab%96%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/#comment-28</link>
		<dc:creator>sawaguchi</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Nov 2008 23:01:35 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=215#comment-28</guid>
		<description>なつかしいオパーリンの名前が出ましたね。
彼は、２０世紀に生化学者として一世を風靡しか科学者です。私も、彼が来日して朝日講堂で講演した記録が「朝日ジャーナル」に紹介されていたのを読んだことがあります。
彼が日本で講演をしたのが1977年4月、その中で「私の５０年前に作った生命体は模型に過ぎなかった」と告白しています。すなわち、蛙のタマゴもどきは作れても、それが自己栄養摂取と細胞分裂が始まらなければ生命体とは言えない」と。
　今日では、その一個の細胞の中に何億という生命設計図が組み込まれていることが知られるようになって、物質から「生命体」を作りだすことは「不可能」の結論が出されているのだと思っています。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>なつかしいオパーリンの名前が出ましたね。<br />
彼は、２０世紀に生化学者として一世を風靡しか科学者です。私も、彼が来日して朝日講堂で講演した記録が「朝日ジャーナル」に紹介されていたのを読んだことがあります。<br />
彼が日本で講演をしたのが1977年4月、その中で「私の５０年前に作った生命体は模型に過ぎなかった」と告白しています。すなわち、蛙のタマゴもどきは作れても、それが自己栄養摂取と細胞分裂が始まらなければ生命体とは言えない」と。<br />
　今日では、その一個の細胞の中に何億という生命設計図が組み込まれていることが知られるようになって、物質から「生命体」を作りだすことは「不可能」の結論が出されているのだと思っています。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　有志 より 進化論について へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e9%80%b2%e5%8c%96%e8%ab%96%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/#comment-27</link>
		<dc:creator>　有志</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 28 Nov 2008 13:42:23 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=215#comment-27</guid>
		<description>オパーリンの進化論の基本的な立場；
「なぜ生物の体はこうも見事に合目的的な構造を持っているのでしょうか。　宗教的な学説に従う人々は、こうした生物の体の持つ合目的性は、その体の構成物質の本質に由来するものではなくて、何か造物主的なものの力に依存しているといっています。
ところで、単に宗教的な人々だけではなく、あらゆる観念論的な立場の学説を持つ人々が、このような観点を支持しています。　たとえば機械論者とか、多くの観念論的な哲学流派の人々は、このような観点を支持しているのです。
彼らの観点を一口で言うと、次のような方程式が成り立ちます。
　Intellect（精神）  +  Matter（物質）  →  Life（生命）　・・・・(1)

　・・・・・これらの考え方に対して、私は次のような方程式を提案したいと思います。
　Matter（物質）  →  Life（生命）  →  Intellect（精神） ・・・・(2)

決して精神が生命をつくったのではなくて、まず物質それ自体の発展によって生命が生じ、この生命から精神というものが生じたのです。」
　オパーリン　（ロシアの生化学者・「生命の起源」の著者・1894~1980）
　　1977年4月　京都での講演にて。 （1977.5 朝日ジャーナルより）

　驚くべき主張です。進化論者の多くの人々も、(2)式 のように考えるしかないと内心では思いながらも、公の場でここまで大胆に言える人は少ないでしょう。　なぜなら、これらのことはまだ証明されていない仮説だからです。
　ここで(1) 式を、あらゆる観念論的な哲学流派の人々も支持していると認めていることは、創造論の立場に立つキリスト教だけではなく、多くの哲学者を始めとする人々も、何らかの精神的な力が働いたということを認めていることは評価できます。
 進化論者は(2)式は仮説だと認めながら、進化は事実であるという主張を続けています。せめて、「進化した可能性がある」と表現すべきでしょう。
</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>オパーリンの進化論の基本的な立場；<br />
「なぜ生物の体はこうも見事に合目的的な構造を持っているのでしょうか。　宗教的な学説に従う人々は、こうした生物の体の持つ合目的性は、その体の構成物質の本質に由来するものではなくて、何か造物主的なものの力に依存しているといっています。<br />
ところで、単に宗教的な人々だけではなく、あらゆる観念論的な立場の学説を持つ人々が、このような観点を支持しています。　たとえば機械論者とか、多くの観念論的な哲学流派の人々は、このような観点を支持しているのです。<br />
彼らの観点を一口で言うと、次のような方程式が成り立ちます。<br />
　Intellect（精神）  +  Matter（物質）  →  Life（生命）　・・・・(1)</p>
<p>　・・・・・これらの考え方に対して、私は次のような方程式を提案したいと思います。<br />
　Matter（物質）  →  Life（生命）  →  Intellect（精神） ・・・・(2)</p>
<p>決して精神が生命をつくったのではなくて、まず物質それ自体の発展によって生命が生じ、この生命から精神というものが生じたのです。」<br />
　オパーリン　（ロシアの生化学者・「生命の起源」の著者・1894~1980）<br />
　　1977年4月　京都での講演にて。 （1977.5 朝日ジャーナルより）</p>
<p>　驚くべき主張です。進化論者の多くの人々も、(2)式 のように考えるしかないと内心では思いながらも、公の場でここまで大胆に言える人は少ないでしょう。　なぜなら、これらのことはまだ証明されていない仮説だからです。<br />
　ここで(1) 式を、あらゆる観念論的な哲学流派の人々も支持していると認めていることは、創造論の立場に立つキリスト教だけではなく、多くの哲学者を始めとする人々も、何らかの精神的な力が働いたということを認めていることは評価できます。<br />
 進化論者は(2)式は仮説だと認めながら、進化は事実であるという主張を続けています。せめて、「進化した可能性がある」と表現すべきでしょう。</p>
]]></content:encoded>
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	<item>
		<title>　せせらぎ より 自由に書いて下さい へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%a6%e4%b8%8b%e3%81%95%e3%81%84/#comment-26</link>
		<dc:creator>　せせらぎ</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Nov 2008 12:55:29 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=177#comment-26</guid>
		<description>また、一つ質問しますので、よろしく願いします。
キリスト教の葬儀に参列した時は、どのようにすればよいのかお教えください。
例えば、焼香等の代わりに何をするのでしょうか？ また、金品などを包んで持っていく時などは、何と書くのでしょうか？「ご霊前」でいいのでしょうか？ 
また、亡くなられた方がクリスチャンの場合は、天国に行かれたはずですので、悲しむことではないと思うのですが、遺族の方にはやはり「ご愁傷様です」と挨拶をするのでしょうか。
その他、注意することがあれば教えて下さい。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>また、一つ質問しますので、よろしく願いします。<br />
キリスト教の葬儀に参列した時は、どのようにすればよいのかお教えください。<br />
例えば、焼香等の代わりに何をするのでしょうか？ また、金品などを包んで持っていく時などは、何と書くのでしょうか？「ご霊前」でいいのでしょうか？<br />
また、亡くなられた方がクリスチャンの場合は、天国に行かれたはずですので、悲しむことではないと思うのですが、遺族の方にはやはり「ご愁傷様です」と挨拶をするのでしょうか。<br />
その他、注意することがあれば教えて下さい。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>　suzuka より 進化論について へのコメント</title>
		<link>http://www.ishizuech.com/%e9%80%b2%e5%8c%96%e8%ab%96%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/#comment-25</link>
		<dc:creator>　suzuka</dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Nov 2008 11:17:39 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.ishizuech.com/?p=215#comment-25</guid>
		<description>〈 小学生の頃の思い出 〉
昔の話だが、小学生の高学年の理科の授業だったと思う。
初めて進化論について先生の話を聞いた時のことを思い出す。
人間は、海に生きていた魚が進化して、陸に上がって爬虫類になり、
その爬虫類が進化して、鳥や人間ができたのだと教えられた。
それを聞いたときは、本当に気持ちが悪くなったことを記憶している。
人間の祖先は、魚や、かえるや、へびや、とかげの類だったのかと。
今でもこんなことは信じられない。
進化論を唱える人たちはこんなことを信じているのだろうか？
そして、遠い祖先であると言われている魚を平気で食べられるのだろうか？</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>〈 小学生の頃の思い出 〉<br />
昔の話だが、小学生の高学年の理科の授業だったと思う。<br />
初めて進化論について先生の話を聞いた時のことを思い出す。<br />
人間は、海に生きていた魚が進化して、陸に上がって爬虫類になり、<br />
その爬虫類が進化して、鳥や人間ができたのだと教えられた。<br />
それを聞いたときは、本当に気持ちが悪くなったことを記憶している。<br />
人間の祖先は、魚や、かえるや、へびや、とかげの類だったのかと。<br />
今でもこんなことは信じられない。<br />
進化論を唱える人たちはこんなことを信じているのだろうか？<br />
そして、遠い祖先であると言われている魚を平気で食べられるのだろうか？</p>
]]></content:encoded>
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