他山の石 「共にただ凡夫」 茄子作 九

聖徳太子憲法の第二条には、「人はなはだ悪しきものすくなし」の一句があります。一帝、二皇子、一帰化人を殺し、それ.でいながら寺院を建造したり、さかんに宗教行事をおこなう蘇我氏。そんな矛盾に苦悩し、激怒し、かつは絶望にかられる太子は、それでも、右の一句をロにし、「よく教うるをもって従いぬ」とつづけて、なお希望を持とうとしたのでしょうか。 このように、外に向けて燃える怒りの心眼は、内に瞑黙して、「共にただ凡夫のみ」と沈潜したのでした。宗教というものは、自己を責めるものであり、外に向けられた刃は、反転しておのれを突き刺すものなのです。
それにしても、「共にただ凡夫のみ」と行きついた太子の思想は二百年後には伝教大師最澄の血を吐くような告白、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」に受けつがれ、さらに下ること四百年後に、「十悪の法然房」から「愚痴の法然房」から「愚禿釈の親鸞」へといよいよきびしく追及されていくのです。
.聖徳太子はAD六百年、最澄はAD八百年、法然・親鸞はAD千二百年の人です。しかし、それよりもはるかな昔、紀元一世紀に、使徒パウロは「われは罪人のかしらなり」と喝破していたのであり、その罪からの救いは、ただ恵みによると宣明していたのです〈新約聖書・テモテ第一1・15>。 

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