日本は寛容で?   茄子作 九

2009 年 10 月 13 日 火曜日

嘉禄三年(AD一二二七)といえば、法然が死んで十五年後のことなのに、彼の墓堂は、これを憎む鞍山の僧徒らによって敬却されました。
  もっとも、遺骸の方は、あやうく弟子らによって嵯峨へ移され、ついには西山に運ばれて火葬にふされました。いわゆる〝嘉禄の法難″でした。
 さて、このことは近頃の俗論をまっこうから打破しています。いわく「日本は寛容である」「日本の宗教は他の宗教を排斥しない。」、「日本には宗教の争いはない」「日本には正統・異端の争いはない」などなど。
 それに対して、「あちら西洋では」、「キリスト教は」と指さしてはシタリ顔の評論家や先生がた-。とんでもありません。日本の宗教史は激しい論争、正統・、異端の権力闘争、政撃合体しての宗教戦争でいろどられているのです。それも同じ宗教内部での。
それ忘れてか、見ないでか、「日本は寛容で」、、「日本の宗教は包容的で」と、いい気なサエズリは認められません。飛鳥時代は物部・蘇我の宗教戦争、平安時代の最澄・空海の絶交、鎌倉時代の弾圧・法難、きらには切支丹に対するあの残虐行為は「日本が寛容で」、「日本の宗教は包容的で」といった太平楽を粉砕しています。

他山石 「空海と景教」 19  茄子作 九

2009 年 10 月 5 日 月曜日

  弘法大師・空海と云えば、日本でも一番人気の天才ですが、昔からキリスト教との接触が取沙汰きれて来ました。例のイロバ歌にキリストの贖罪死や神の唯一性が読み込まれていると説かれたり、本尊の大日如来と主なる神との相似性も云々されて来ました。
けれども、イロハ歌が空海の作であることは不明であり、その遺文中にキリスト教関係の一語も発見されていないことから、文献上では右のような話をたしかめることは出来ません。
 けれども、空海は唐に留学した際、キリスト教と接触したことは疑えません。時あたかも、都・長安は〝大泰景教″つまりネストリウス派のキリスト教が大流行中で、何でも見てやろうという知的興味の旺盛な空海が、その教えに開心を抱いたことは当然予想されます。
 空海は帰国の際に沢山の経文類を持ち帰りましたが、その中の一つ「六波羅蜜多経」は恩師の一人である般若三蔵が景浄の協力を得て訳し始めたものでした。そしてこの景浄こそ大泰寺と呼ばれた教会の牧師だったのです。
 もっとも、般若三蔵はのちに新しく訳し直したのですが、その間の経緯は空海も聞いていたと思われます。しかも、空海の宿所である西明寺と大泰寺つまり教会との距離は、旧地図によってはかってみると、わずか十五、六町(一キロ半~二キロ)ほどの近さでした。
一年三か月にわたる長安滞在中、空海はしたしくその門前を往来し、足を踏み入れたことでしょう。三十才を越えたばかりの空海が、どんな顔で教会堂を見、その教えを聞いたことか。
キリスト教は、壮年留学僧・空海の姿をも合わせて、中国、日本の歴史の上に大きく翼をひろげています。

新暦最初の元旦  茄子作 九

2009 年 9 月 12 日 土曜日

壁にかけた初暦の折目が冷たく揃ってっているのは」なにかヒヤッとする新鮮さです。
初暦めくれば月日流れこむ。日本最初の新暦(太陽暦)による元日は、明治六年のことでした。それまで、持統天皇八年(AD六九二年から一一八一年間いうもの、陰暦が使われて来たのですが、明治五年(AD一八七二年)の十一月九日、政府は突如として、改暦を布告しました。
 「来ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト定メ」
と。
.今日でさえ、旧暦で行事をおこなう風習があるくらいですか
ら、当時の人々の心中はタイへンなもので、老婆が「師走(し
はす)の三日に正月が来るなんて、けったいな」と嘆けば、職
人は「されば、昨日は十二月一日で、明日は一月一日だという
のか。そんなら十二月の二日には三十日分も働かなければなら
なくなる。徳川の正月の方がいい」という次第。
 では、なぜ政府は陰暦を陽暦に改めたのでしょうか。万国共通の日付にする必要と、旧暦にまつわる様々な迷信を一掃する意図があったことは知られています。しかしこれが、わざわざ「明治六年」にかぎって断行された裏には、国の財布の事情があったのでした。
 すなわち、旧暦だと、明治六年には、まるまる一ヶ月を閏月(うるうづき)として、ふやさなければならないのですが、維新前は官吏の俸給が年給だったのを、維新後は月給日給制度にきりかえていました。となると、、明治六年には官吏へ月給が十三ケ月分となってしまう。
 ただでさえ、窮屈なのに、一ヶ月分の余計な支出は無理だというわけで、明治六年を新暦に切りかえて、閏月を消し去ったという裏話です。.
おかげで、官吏十二月分の月給と翌年もらうはずだった閏月分の月給をもらいそこねるというオソマツでした。

他山の石 「慈善の師弟も」23  茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

 叡尊(えいぞん)、忍性(にんしょう)と云っても、ご存知ないかたが多いことでしょうが、鎌倉時代に慈善活動で奮闘した律僧として、もっと銘記されてよい師弟です。
 叡尊は、「非人救済」、すなわち乞食への施しや、「殺生禁断」、つまり生きものの漁猟を禁じて、戒律の実践に献身しました。そのころ老朽化していた宇治橋を造営したかわりに宇治川での漁をやめさせて生斉救済を期しました。
 弟子の忍性も、非人や捨て子の救済にあたり、囚人に手をのべ、橋を架けること百八十九、道を開くこと七十一、井戸を掘るること三十三と云われました。
 とくに奈良北山に建てた癩者の施設・北山十八間戸は有名です。馬病舎も設けて、獣畜にあわれみを施すことも実践しました。
しかし、これらの事業が、人々の尊敬を受けるはかりであったかというと、そうではなく、反対の声が高かったことは考えさせられます。
 「摂生禁断」と云っても、そのために漁師や猟師たちは職を失わざるを得ません。また、慈善費が通行税などによって調達されたりしました。「乞食や魚のために真面目に働いている者が犠牲になるとは何事か」と云うことで、あの日蓮も攻撃の側に立ちました。
 さらに、悲しいことには、当の乞食たちが、次第にゼイタクになり、感謝を忘れて不平をもらし、施し強請するようになり、ついにはその欲得のため、乞食同士で乱闘に及ぶのでした。ナンということを、やんぬるかなや、なのでした。
 慈善事業の限界でした。根本は、人の心そのものの改造、いや生まれかわることでした。
「人あらたに生れずば、神の国を見ることあたはず」<新約聖書・ヨハネ三章3>と云う、聖書のみことばが底深いところから聞こえて来るような気がします。

他山の石 「いろは歌と聖書」 21  茄子作  九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

 イロハ歌が空海作のものでないことは、今日しられるところとなっていますが、なにも空海でなくても出来るという例は、一九〇三(明治三十六)年に「万朝報』新聞で一等当選した次の作品でもわかりましょ
 とりなくこゑす ゆめさませ
 (鳥鳴く声す 夢きませ)
 みよあけわたる ひんがしを
 (見よ明けわたる 東を)
そらいろはえておきつへに
(空色映えて沖つ辺に)
 はふねむれゐぬ もやのうち
 (帆舟群れ居ぬ もやのうち)
 今様詞に「ん」も入れて完壁
です。
 このほかには、イロハを和歌の頭と尾によみ込んで、連作という試みもあります。
 あらさじと打ち返すらしを山田の苗代水にぬれて作るあ
 めも遙かに雪間も青くなりにけり
  今こそ野辺に若菜摘みてめ

つくば山 咲ける桜の匂ひをば入りて折らねどよそながら見つ

 それぞれ頭尾に「あ」、「め」、「つ」をよみ込み、これを通すと「あめ、つち、ほし、そら、やま、かは」となって行く趣向です。平安中期の才人・源 順(みなもとの・したごう)の作です。
 もっとも、このこころみはすでに聖書にありました!詩篇一一九篇が、それです。
 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。そのさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
以下、各八節ヅツヘプル語のイロバを各行の頭によみこんで、
堂々一七六節、二十二段の大長編。しかも、テーマは〝神のことば″で終始一貫とは、さすがは聖書のイロバ歌というところでした。
 それも、第一段は「幸いなことよ」と若々しいマーチ風で始まり、第二十二段のしめくくりは「私は滅びる羊」と、「わび」、「さび」でおさめたところなど、たまりません。

他山の石 「いろはうた」 20  茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

  色は句へど 散りぬるを我が世誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
 このご存知「いろはうた」は長いあいだ弘法大師・空海の作とされました。しかも、これを七字切で書いて見ると、上表に並ぶ文字が「いちよらやあゑ」となって、「やあゑ(ヤーベ)」つまり「エホバ」は「いちよら」つまり一つ」となる。また下一線に並ぶのは「とがなくてしす」で、「咎無くて死す」と読めるところから、キリストの福音が隠されていると云われました。
 このほか、面白いのは、あの歌舞伎のドル箱・竹田出雲作「仮名手本忠臣蔵」の題名は「咎なくして死んだ」赤穂四十七士を「四十七字」の仮名手本である「いろはうた」にあてたものでした。とすると、この浄瑠璃が初演された一七四八年には、すでに「咎無くて死す」という読みが広くおこなわれていたこおtがわかります。
 さらにさかのぼると、同じく無実の罪で処刑きれた死刑囚の作、それも詩人の作であろうというわけで、万葉の歌聖・柿本人麿の作ではないかという珍説もなされました。
 けれども、「咎なくて死す」とは「寂滅為楽」の仏教思想にあたるから、これは仏家、ことに真言宗系の仏者の作であろうともされました。
 あれこれするうちに、大矢透 の「菅図及手習詞歌考」(一九-八・大正七年)が発表され、弘法大師作説は影を薄くしました。文法などの点から空海(七七四~八三五)よりも百年以上あとのものと断案されたのです。
 とは云え、この「いろはうた」がキリスト教と関連させられたのは、空海自身が唐の都・長安留学中にキリスト教にふれたことによっているわけで、たとえ空海の作でないとしても、何となく見えない因緑が感ぜられる次第です。

他山の石 「共にただ凡夫」 茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

聖徳太子憲法の第二条には、「人はなはだ悪しきものすくなし」の一句があります。一帝、二皇子、一帰化人を殺し、それ.でいながら寺院を建造したり、さかんに宗教行事をおこなう蘇我氏。そんな矛盾に苦悩し、激怒し、かつは絶望にかられる太子は、それでも、右の一句をロにし、「よく教うるをもって従いぬ」とつづけて、なお希望を持とうとしたのでしょうか。 このように、外に向けて燃える怒りの心眼は、内に瞑黙して、「共にただ凡夫のみ」と沈潜したのでした。宗教というものは、自己を責めるものであり、外に向けられた刃は、反転しておのれを突き刺すものなのです。
それにしても、「共にただ凡夫のみ」と行きついた太子の思想は二百年後には伝教大師最澄の血を吐くような告白、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」に受けつがれ、さらに下ること四百年後に、「十悪の法然房」から「愚痴の法然房」から「愚禿釈の親鸞」へといよいよきびしく追及されていくのです。
.聖徳太子はAD六百年、最澄はAD八百年、法然・親鸞はAD千二百年の人です。しかし、それよりもはるかな昔、紀元一世紀に、使徒パウロは「われは罪人のかしらなり」と喝破していたのであり、その罪からの救いは、ただ恵みによると宣明していたのです〈新約聖書・テモテ第一1・15>。 

他山の石 「正宗の脇差」 茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

   東北の雄・伊達政宗(だてまきむね)は、いわゆる譜代(ふだい)大名ではありませんでし元が、徳川家庶・秀忠・家光の三代に仕えて勲功がありました。
 もともと、政宗は大太刀を差していましたが、三代将軍家光に召された時、その長脇差しを腰からはずし置いて進み出ました。これを見て家光は「差したままでよい。」。老年のことではあるし、お前がどんな心を抱いていかは知らぬが、私は少しも気づかいなどしておらぬ。さあ太刀を差したままでないと、盃をとらせぬ」と、たわむれました。
 それを聞くと、政宗は感涙にむせび、これまで二代さまには身命を投げうってお仕え申しあげましたが、今の三代さまには、これという忠勤の覚えもございませぬのに、かくまで有難い御恩顧をたまわりますことは死んでも忘れませぬと、そのまま酩酊し、前後も知らず、いびきをかいて寝入ってしまいました。
 その間、近習の者が、熟眠している正宗のかたわらに脱ぎおかれ
ていた大太刀を、ひそかに引き抜いて見れば、中身はなんと木刀で
造られていたのでした。
 聖書でも、猜疑と嫉妬に狂うサウル王にねらわれた悲劇の名将ダ
ビデは、エン・ゲディの荒野に追いつめられ、そのほら穴に息をひそめましたが、そこへ入って来たサウル王の上着のすそを一片、ひそかに切り取りました。
 やがて、サウル王がほら穴を出て行った時、ダビデは後から「王よ」と呼びかけ、地にひれ伏すとその一片をかかげて、自分に逆心のないことを証しました。
 さしものサウル王も、それを見ると、「わが子ダビデよ」と呼びおのれ非を告白し、声をぁげて泣きじゃくりました。〈サムエル第一24章〉
東西を問わぬ、きびしい時代の身の証の切なさのひとこまです。

 他山の石 「剣は自分自身に」  茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

 聖徳太子の精神を端的にあらわす文書として、有名な憲法十七条があります。その中でも、第十条に注目させられるところです。
第十条は「他人が自分と意見異にするからといって怒ってはならない。人にはみな思うところがあり、それぞれ正しいとしているものだ。彼が善しとしていることを私は悪しとし、逆に私が善とすることを彼は悪とする。」と述べられて行きます。
 摂政として、あの横暴なな蘇我氏と共に国政にあたる太子の苦衷がにじみ出ているように読めます。太子の目からすれば、全く正しくない蘇我馬子・蝦夷父子の言動。しかし、太子は和を重んずる宗教者です。しかも、なんと太子の体中のは蘇我氏の血が流れていて、彼をして、ひたすら、内面的に苦悩せしめ、このような自戒の言葉を結晶させて行ったのでしょうか。
そして、「自分は必ずしも聖人ではないことだし、彼は必ずしも愚者ではないではないか。よくよく考えてみれば、彼も私も共に凡夫にすぎない」と、沈痛に屈折しているのです。
それも、「彼に対して怒りをもよおす事があっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省しなければならない」と、剣は自分自身に向けているのです。
 「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目
の中の梁には気がつかないのですか」という主イエスの言葉〈マタ
イ7・3>や、「あなたは他人をさばくことによって、自分自身を.
罪に定めています」という使徒パゥロの言葉〈ローマ2・1>の、
こだまのように聞こえるのです。

 他山の石 「武人と和歌」   茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

 江戸築城で有名な太田道灌が鷹狩りに出て雨にあい、小家で蓑(みの)を借りようとすると、少女が山吹の花一枝を差し出したので、怒って帰りましたが、それは、 
 七重八重花は咲けども山吹の
 みの一つだにななきぞ悲しき
という古歌のこころであ.ったと知り、大いに発憤して名を成した話はよく知られています。
 しかし、その後おさめた和歌の道が大いに役立った後日談をご存
じでしょうか。ある時、罪を犯した七人の者が一つ屋敷にこもって捕り手を寄せつけません。すると道灌は「七人のうちの一人は助けることになっているから気をつけよ」と呼ばわれば、七人は自分がその一人だと恩ってひるむから、そこを突けと命じました。その通りになりました。
 世の中に独り止まるものならは
 もし我かはと身をや頼まん
という古歌によったものです。
 また、千葉攻めの折、山路は石矢でねらいうちきれたので、干潟を通って攻め込むことになりましたが、道灌は耳をすましただけで潮の干いていることを判断しました。すなわち、
 遠くなり近くなるみの浜千鳥 
 鳴音に湖の満ち干をぞ知る
という古歌によって、千鳥の声が遠く聞こえたからなのでした。
 またある時、夜中に利根川を渡ることになりましたが、闇きは闇
し、浅瀬はどこにあるのかわかりません。しかし、
 底ひなき淵やはさわぐ山川の
 浅き瀬にこそあだ波は立て
と古歌にあることから、波音の高いところを渡れと命じて、無事、渡河をはたしました。
 武人と和歌とは緑が無いように見えますが、どういたしまして、このようなこともあるのです。
花を植えたり戦きもしたり。聖書にも帯剣歌人ダビデがいました。