進化論について


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  1.  紅葉 より:

    進化論について話し合っていました。 キリンの首が長いのは高い木の葉を食べようと首を伸ばしていたら、長い間に進化して長くなったらしいという話をしていたら、ある人が、ならば、象の鼻が長いのは、どうして長くなったのか、と言った。ホントにどうしてなのでしょうね。そもそも、生物学の理論によれば、獲得形質は遺伝しないはずなのに、何故、キリンの首だけこの理論に反して長くなったのでしょうね? 誰か知っている人がいたら教えて下さい。

  2.  有志 より:

    キリンの首はなぜ伸びたのか?
    高い木の葉を食べようとして首を伸ばしているうちに少し首が伸び、それが親から子に伝わって長い間に今のように長い首になった、というのはラマルクという人の説で、1809 年に用・不要の説を唱えました。 これはよく使う器官は発達し、使わない器官は退化し、それが遺伝していって進化していくというものです。 獲得形質は遺伝するという説ですが、今の生物学では否定されています。
     その後、1859 年にダーウィンが「種の起源」を出版し、適者生存を柱とする自然選択説を唱えました。 これによると遺伝子の突然変異によって、少しだけ首の長いキリンが生まれたとすると、このキリンは遠くの敵を早く見つけたり、高い木の葉を食べられたりするので、生き残る確率が高く、その子供のキリンからもう少し長い首のキリンが突然変異で誕生し、それが生き残り、これを繰り返して今のような首の長いキリンになったという説です。 しかしこの説も首が長くなることがそんなに有利なのなら、なぜキリンの首だけが長くなって、同じ草原にいた他の動物の首は長くならなかったのかという疑問が出されています。
    また中間の長さの首を持ったキリンの化石がまったく発見されていないということも問題点です。(進化の途中段階にある中間の化石、いわゆるミッシング・リンクが存在しないことは、他の生物全般についても言えることで、このことはダーウィンの進化論が崩壊しつつある理由のひとつです。)
    象さんの鼻も、長い方が便利だから、長い時間をかけて長くなったと、そう簡単には考えられません。

    近年、ダーウィン進化論が行き詰まった結果、さまざまな進化論が登場しています。 その中の一つにウイルス進化説を唱える人々がいます。 この説でキリンの首を説明すると、キリンはいわば首が長くなる病気になった動物なのだということです。 すなわち、首が長くなる遺伝子をもったウイルスに感染したことで首が長くなったということになります。
    しかし、この説も生物に進化をもたらしたウイルスがみつかったわけではなく、あくまでも仮説にすぎないことは、提案者自らが認めています。( 中原、佐川著「新・進化論が変わる」 )

    いずれにしても進化論の最大の問題は最初の生命がどのように生じたか。 また種を超えた変化が実際に次々に起こったのかどうかにあります。 すなわち、命のない物質から生命が生じ、それから海の中に住む魚などが生じ、それが陸に上がって爬虫類に進化し、そこから空を飛ぶ鳥や、哺乳類に進化して、現在生きている人間を含む生物が存在するようになったといわれています。しかしこれらはいずれも仮説であり、何一つ確認されていません。 化石はこれを証明していません。 中間種と言われていた始祖鳥は結局、変り種の鳥であったということにおちついたようですし、シーラカンスにいたっては、現在も化石と同じ姿で生きているのが捕獲されています。
     また、種を超える変化は確認されていません。 いずれも種内の変化のみです。 種内の変化は、例えば身近なところでも犬を見れば明らかだと思います。 体の大小、毛の長短、色の多様さ、様々な犬が存在しています。 これらはいずれも交配可能な種内の変化であり、他の多くの生物でも確認することができます。 これらの変化は初めから、遺伝子の中に組み込まれていたと考えられています。
    進化論については今後もいろいろと議論を続けましょう。

  3.  suzuka より:

    〈 小学生の頃の思い出 〉
    昔の話だが、小学生の高学年の理科の授業だったと思う。
    初めて進化論について先生の話を聞いた時のことを思い出す。
    人間は、海に生きていた魚が進化して、陸に上がって爬虫類になり、
    その爬虫類が進化して、鳥や人間ができたのだと教えられた。
    それを聞いたときは、本当に気持ちが悪くなったことを記憶している。
    人間の祖先は、魚や、かえるや、へびや、とかげの類だったのかと。
    今でもこんなことは信じられない。
    進化論を唱える人たちはこんなことを信じているのだろうか?
    そして、遠い祖先であると言われている魚を平気で食べられるのだろうか?

  4.  有志 より:

    オパーリンの進化論の基本的な立場;
    「なぜ生物の体はこうも見事に合目的的な構造を持っているのでしょうか。 宗教的な学説に従う人々は、こうした生物の体の持つ合目的性は、その体の構成物質の本質に由来するものではなくて、何か造物主的なものの力に依存しているといっています。
    ところで、単に宗教的な人々だけではなく、あらゆる観念論的な立場の学説を持つ人々が、このような観点を支持しています。 たとえば機械論者とか、多くの観念論的な哲学流派の人々は、このような観点を支持しているのです。
    彼らの観点を一口で言うと、次のような方程式が成り立ちます。
     Intellect(精神) + Matter(物質) → Life(生命) ・・・・(1)

     ・・・・・これらの考え方に対して、私は次のような方程式を提案したいと思います。
     Matter(物質) → Life(生命) → Intellect(精神) ・・・・(2)

    決して精神が生命をつくったのではなくて、まず物質それ自体の発展によって生命が生じ、この生命から精神というものが生じたのです。」
     オパーリン (ロシアの生化学者・「生命の起源」の著者・1894~1980)
      1977年4月 京都での講演にて。 (1977.5 朝日ジャーナルより)

     驚くべき主張です。進化論者の多くの人々も、(2)式 のように考えるしかないと内心では思いながらも、公の場でここまで大胆に言える人は少ないでしょう。 なぜなら、これらのことはまだ証明されていない仮説だからです。
     ここで(1) 式を、あらゆる観念論的な哲学流派の人々も支持していると認めていることは、創造論の立場に立つキリスト教だけではなく、多くの哲学者を始めとする人々も、何らかの精神的な力が働いたということを認めていることは評価できます。
    進化論者は(2)式は仮説だと認めながら、進化は事実であるという主張を続けています。せめて、「進化した可能性がある」と表現すべきでしょう。

  5. sawaguchi より:

    なつかしいオパーリンの名前が出ましたね。
    彼は、20世紀に生化学者として一世を風靡しか科学者です。私も、彼が来日して朝日講堂で講演した記録が「朝日ジャーナル」に紹介されていたのを読んだことがあります。
    彼が日本で講演をしたのが1977年4月、その中で「私の50年前に作った生命体は模型に過ぎなかった」と告白しています。すなわち、蛙のタマゴもどきは作れても、それが自己栄養摂取と細胞分裂が始まらなければ生命体とは言えない」と。
     今日では、その一個の細胞の中に何億という生命設計図が組み込まれていることが知られるようになって、物質から「生命体」を作りだすことは「不可能」の結論が出されているのだと思っています。

  6.  有志 より:

    ここで、進化論者の主張にも耳を傾けることにしましょう。

    「ダーウィンニズムは、今や理論ではなく事実そのものである。地球が太陽の周りを回る事実を認める科学者なら誰でも、進化という事実を否定する者はいないだろう」
      ジュリアン・ハックスリー(イギリスの生物学者・哲学者、1887~1975)

    「進化とは、一回きりの出来事であり、再現性がない。脊椎動物を魚に変えることもできなければ、その逆も不可能である。というのも、このような特殊な歴史的現象の研究に実験的手法を使うことは、まず時間的に非常に制限されるからである。つまり、進化論における時間のスケールは、実験する人間の生命をはるかに上回るものである」
      セオドシウス・ドブジャンスキー(ウクライナ出身、1927年アメリカに移住、遺伝学・進化生物学者、1900~1975)

    「いくら進化論の証拠を探しても見つかるまい。化学や物理学で言う証拠を、生物発生学上の問題に関して挙げることは不可能なのだから」
       アレキサンドル・オパーリン (ロシアの生化学者、1894~1980)

    最初に引用した、ハックスリーの言葉はよく聞かれる表現だと思いますが、現代の多くの生物学者は、このような威圧的な言葉ではなく、もっと抑制した表現をとることでしょう。それにしても、この言葉は間違っています。現在では、多くの科学者が進化論に疑問を投げかけています。
    他の二人は、いずれも実験的な再現性は不可能であり、証拠はないと言っているわけですから、進化論を科学と認めることはできないのは、誰も否定できないと思います。
    「科学」という言葉の定義は、現象を観察して、まず仮説をたて、それを実験によって確認されて初めて科学的な真理として認められる、ということです。進化論は仮説の段階でとどまっています。
    聖書を信じる創造論者が、創造科学と表現していることが問題にされることがあるようですが、神がすべてを創造されたと主張することも、科学的に証明できませんので、科学とは言えないといわれるのは尤もです。しかし、「創造科学」の意味は“創造論の立場から、進化論を科学的に検証する”と理解すれば問題はないと思われます。
    問題なのは、進化論が多数派であることを根拠にして、学校でも進化論を事実であるかのように教えていることです。そして、種内変化までも進化と結び付けようとしていることです。生物学は空想の世界をさまようことなく、検証可能な科学の領域にとどまるべきでしょう。

  7.  suzuka より:

    〈 ダーウィン進化論への批判 〉

    長い時間をかけて突然変異によって、あらゆる生物が偶然に作られるという仮説に対し;

    「この理論は、レンガをデタラメに積み上げて放っておくと、城やギリシャの神殿が勝手に出来上がったというに等しい」
     アルバート・セント・ジョルジ(ノーベル賞を受賞したハンガリーの生化学者、1893~1986)

    「宇宙の年齢を100億年としても、進化した哺乳類の細胞核に含まれる2000個もの遺伝子ができるチャンスを考えると、この時間は決して充分ではない。突然変異で今ある遺伝子情報のように複雑で整然としたシステムができる確率は、竜巻がゴミ屑を巻き上げたらジェット機ができたというようなものだ」
     フレッド・ホイル (イギリスの宇宙物理学者、1915~2001)

    「生物が進化するためには、生物の設計図である遺伝子が変化しなくてはならない。ダーウィン進化論ではいまのところ、遺伝子の変化もアトランダムな突然変異に頼っている。アトランダムということは偶然という意味である。
    こうした偶然の突然変異と自然淘汰による爬虫類から鳥類への進化を、自動車を改良して飛行機を開発するプロジェクトにたとえてみると、ある自動車の部品をアトランダムに取り替えたり、構造を無目的に改造したりしているうちに、いつのまにか飛行機ができあがってしまったということになる」
     佐川、中原著「進化論が変わる」より

    自然淘汰の定義に対し;

    「動物における適者というのは、必ずしもその動物が健康で強いということではない。本質的には、子孫をたくさん残すということだけだ。事実、自然淘汰の原理は“多くの子孫を残すであろう固体は、多くの子孫を残す”という一言に尽きる。だが、これでは何も言わないに等しい」
     C・H・ウォディントン(イギリスの生物学者、1905~1975)

    自然淘汰は恒常的に進むという理論に対し;

    「自然淘汰とは、自然の力によって行われる没個性的な作用である。だから、将来必ず役に立つ器官になる、今はその途中だ等と言い訳してみても、今、役に立たなければ淘汰されてしまうはずである。遠い将来のことなど、まるで関係ないはずではないか」
     ノーマン・マクベス(アメリカ、「ダーウィン再考」〔1971〕の著者)

    「器官の進化の途中で顎半分とか翼半分あっても、何の役にも立たないではないか」
     スチーブン・グールド (ハーバード大学の生物学者、1941~2002)

     眼の発生に対して;

    「目について触れられると、どう考えていいかわからず、ぞっとする気持ちを抑えられない・・・眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調節したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られると考えるのは、まったく無理であることを私自身認めざるをえない」
     チャールズ・ダーウィン(イギリス、1809~1882 )

    「眼は涙腺や瞼等さまざまな部分からなり、すべてが同時に機能するような完成品になった場合にしか役に立たない。ところが、眼の進化過程の初期段階、各部分はまったく未発達で機能の調和がとれず、存在意味はなかったはずだが、それでは自然淘汰はどうなっていたのか。自然淘汰というものは、器官が最終的にどんな発達を遂げるかはお構いなしに起こる、冷厳なる現象のはずである。」
     ガートルード・ヒンメルファーブ (アメリカ、歴史家、1922~)

    等、等、等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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