毎日曜日、 午前10時30分より主日礼拝を行っています。

2022 年 1 月 3 日 月曜日

私達は限られた、有限な命を生きています。そして、人生において度々、苦しみや、悲しみや、様々な困難に出会います。
また、私達人間は他の動物達と違って自分自身の死を知っており、永遠を想う心を与えられています。
 聖書はそんな私達に、神様から贈られたメッセージだと思います。
 
 礼拝では、賛美歌や祈りの時間があり、聖書からのお話があります。
どうかあなたも一度礼拝に参加されて、この世界を造られた神様を知る機会をもって下さい。聖書の中に永遠の命を求めて下さい。

聖書や賛美歌をお持ちでない方は教会に備え付けのをご使用下さい。
献金の時間もありますが、自由ですのでお気持ちのままにして下さい。

どなたでも、お気軽にお越し下さい。

日本は寛容で?   茄子作 九

2009 年 10 月 13 日 火曜日

嘉禄三年(AD一二二七)といえば、法然が死んで十五年後のことなのに、彼の墓堂は、これを憎む鞍山の僧徒らによって敬却されました。
  もっとも、遺骸の方は、あやうく弟子らによって嵯峨へ移され、ついには西山に運ばれて火葬にふされました。いわゆる〝嘉禄の法難″でした。
 さて、このことは近頃の俗論をまっこうから打破しています。いわく「日本は寛容である」「日本の宗教は他の宗教を排斥しない。」、「日本には宗教の争いはない」「日本には正統・異端の争いはない」などなど。
 それに対して、「あちら西洋では」、「キリスト教は」と指さしてはシタリ顔の評論家や先生がた-。とんでもありません。日本の宗教史は激しい論争、正統・、異端の権力闘争、政撃合体しての宗教戦争でいろどられているのです。それも同じ宗教内部での。
それ忘れてか、見ないでか、「日本は寛容で」、、「日本の宗教は包容的で」と、いい気なサエズリは認められません。飛鳥時代は物部・蘇我の宗教戦争、平安時代の最澄・空海の絶交、鎌倉時代の弾圧・法難、きらには切支丹に対するあの残虐行為は「日本が寛容で」、「日本の宗教は包容的で」といった太平楽を粉砕しています。

進化論について

2009 年 10 月 10 日 土曜日

 

《 A .》  進化論について話し合っていました。 キリンの首が長いのは高い木の葉を食べようと首を伸ばしていたら、長い間に進化して長くなったらしいという話をしていたら、ある人が、ならば、象の鼻が長いのは、どうして長くなったのか、と言った。ホントにどうしてなのでしょうね。そもそも、生物学の理論によれば、獲得形質は遺伝しないはずなのに、何故、キリンの首だけこの理論に反して長くなったのでしょうね? 誰か知っている人がいたら教えて下さい。

《 B. 》 キリンの首はなぜ伸びたのか?
高い木の葉を食べようとして首を伸ばしているうちに少し首が伸び、それが親から子に伝わって長い間に今のように長い首になった、というのはラマルクという人の説で、1809 年に用・不要の説を唱えました。 これはよく使う器官は発達し、使わない器官は退化し、それが遺伝していって進化していくというものです。 獲得形質は遺伝するという説ですが、今の生物学では否定されています。
 その後、1859 年にダーウィンが「種の起源」を出版し、適者生存を柱とする自然選択説を唱えました。 これによると遺伝子の突然変異によって、少しだけ首の長いキリンが生まれたとすると、このキリンは遠くの敵を早く見つけたり、高い木の葉を食べられたりするので、生き残る確率が高く、その子供のキリンからもう少し長い首のキリンが突然変異で誕生し、それが生き残り、これを繰り返して今のような首の長いキリンになったという説です。 しかしこの説も首が長くなることがそんなに有利なのなら、なぜキリンの首だけが長くなって、同じ草原にいた他の動物の首は長くならなかったのかという疑問が出されています。
また中間の長さの首を持ったキリンの化石がまったく発見されていないということも問題点です。(進化の途中段階にある中間の化石、いわゆるミッシング・リンクが存在しないことは、他の生物全般についても言えることで、このことはダーウィンの進化論が崩壊しつつある理由のひとつです。)
象さんの鼻も、長い方が便利だから、長い時間をかけて長くなったと、そう簡単には考えられません。

近年、ダーウィン進化論が行き詰まった結果、さまざまな進化論が登場しています。 その中の一つにウイルス進化説を唱える人々がいます。 この説でキリンの首を説明すると、キリンはいわば首が長くなる病気になった動物なのだということです。 すなわち、首が長くなる遺伝子をもったウイルスに感染したことで首が長くなったということになります。
しかし、この説も生物に進化をもたらしたウイルスがみつかったわけではなく、あくまでも仮説にすぎないことは、提案者自らが認めています。( 中原、佐川著「新・進化論が変わる」 )

いずれにしても進化論の最大の問題は最初の生命がどのように生じたか。 また種を超えた変化が実際に次々に起こったのかどうかにあります。 すなわち、命のない物質から生命が生じ、それから海の中に住む魚などが生じ、それが陸に上がって爬虫類に進化し、そこから空を飛ぶ鳥や、哺乳類に進化して、現在生きている人間を含む生物が存在するようになったといわれています。しかしこれらはいずれも仮説であり、何一つ確認されていません。 化石はこれを証明していません。 中間種と言われていた始祖鳥は結局、変り種の鳥であったということにおちついたようですし、シーラカンスにいたっては、現在も化石と同じ姿で生きているのが捕獲されています。
 また、種を超える変化は確認されていません。 いずれも種内の変化のみです。 種内の変化は、例えば身近なところでも犬を見れば明らかだと思います。 体の大小、毛の長短、色の多様さ、様々な犬が存在しています。 これらはいずれも交配可能な種内の変化であり、他の多くの生物でも確認することができます。 これらの変化は初めから、遺伝子の中に組み込まれていたと考えられています。
進化論については今後もいろいろと議論を続けましょう。

《 A. 》 小学生の頃の思い出 
昔の話だが、小学生の高学年の理科の授業だったと思う。
初めて進化論について先生の話を聞いた時のことを思い出す。
人間は、海に生きていた魚が進化して、陸に上がって爬虫類になり、
その爬虫類が進化して、鳥や人間ができたのだと教えられた。
それを聞いたときは、本当に気持ちが悪くなったことを記憶している。
人間の祖先は、魚や、かえるや、へびや、とかげの類だったのかと。
今でもこんなことは信じられない。
進化論を唱える人たちはこんなことを信じているのだろうか?
そして、遠い祖先であると言われている魚を平気で食べられるのだろうか?

《 B.  オパーリンの進化論の基本的な立場 
「なぜ生物の体はこうも見事に合目的的な構造を持っているのでしょうか。 宗教的な学説に従う人々は、こうした生物の体の持つ合目的性は、その体の構成物質の本質に由来するものではなくて、何か造物主的なものの力に依存しているといっています。
ところで、単に宗教的な人々だけではなく、あらゆる観念論的な立場の学説を持つ人々が、このような観点を支持しています。 たとえば機械論者とか、多くの観念論的な哲学流派の人々は、このような観点を支持しているのです。
彼らの観点を一口で言うと、次のような方程式が成り立ちます。
 Intellect(精神) + Matter(物質) → Life(生命) ・・・・(1)

 ・・・・・これらの考え方に対して、私は次のような方程式を提案したいと思います。
 Matter(物質) → Life(生命) → Intellect(精神) ・・・・(2)

決して精神が生命をつくったのではなくて、まず物質それ自体の発展によって生命が生じ、この生命から精神というものが生じたのです。」
 オパーリン (ロシアの生化学者・「生命の起源」の著者・1894~1980
  19774月 京都での講演にて。 (1977.5 朝日ジャーナルより)

 驚くべき主張です。進化論者の多くの人々も、(2)式 のように考えるしかないと内心では思いながらも、公の場でここまで大胆に言える人は少ないでしょう。 なぜなら、これらのことはまだ証明されていない仮説だからです。
 ここで(1) 式を、あらゆる観念論的な哲学流派の人々も支持していると認めていることは、創造論の立場に立つキリスト教だけではなく、多くの哲学者を始めとする人々も、何らかの精神的な力が働いたということを認めていることは評価できます。
進化論者は(2)式は仮説だと認めながら、進化は事実であるという主張を続けています。せめて、「進化した可能性がある」と表現すべきでしょう。

《 S. なつかしいオパーリンの名前が出ましたね。
彼は、20世紀に生化学者として一世を風靡しか科学者です。私も、彼が来日して朝日講堂で講演した記録が「朝日ジャーナル」に紹介されていたのを読んだことがあります。
彼が日本で講演をしたのが19774月、その中で「私の50年前に作った生命体は模型に過ぎなかった」と告白しています。すなわち、蛙のタマゴもどきは作れても、それが自己栄養摂取と細胞分裂が始まらなければ生命体とは言えない」と。
 今日では、その一個の細胞の中に何億という生命設計図が組み込まれていることが知られるようになって、物質から「生命体」を作りだすことは「不可能」の結論が出されているのだと思っています。

《 B ここで、進化論者の主張にも耳を傾けることにしましょう。

「ダーウィンニズムは、今や理論ではなく事実そのものである。地球が太陽の周りを回る事実を認める科学者なら誰でも、進化という事実を否定する者はいないだろう」
  ジュリアン・ハックスリー(イギリスの生物学者・哲学者、18871975

「進化とは、一回きりの出来事であり、再現性がない。脊椎動物を魚に変えることもできなければ、その逆も不可能である。というのも、このような特殊な歴史的現象の研究に実験的手法を使うことは、まず時間的に非常に制限されるからである。つまり、進化論における時間のスケールは、実験する人間の生命をはるかに上回るものである」
  セオドシウス・ドブジャンスキー(ウクライナ出身、1927年アメリカに移住、遺伝学・進化生物学者、19001975

「いくら進化論の証拠を探しても見つかるまい。化学や物理学で言う証拠を、生物発生学上の問題に関して挙げることは不可能なのだから」
   アレキサンドル・オパーリン (ロシアの生化学者、18941980

最初に引用した、ハックスリーの言葉はよく聞かれる表現だと思いますが、現代の多くの生物学者は、このような威圧的な言葉ではなく、もっと抑制した表現をとることでしょう。それにしても、この言葉は間違っています。現在では、多くの科学者が進化論に疑問を投げかけています。
他の二人は、いずれも実験的な再現性は不可能であり、証拠はないと言っているわけですから、進化論を科学と認めることはできないのは、誰も否定できないと思います。
「科学」という言葉の定義は、現象を観察して、まず仮説をたて、それを実験によって確認されて初めて科学的な真理として認められる、ということです。進化論は仮説の段階でとどまっています。
聖書を信じる創造論者が、創造科学と表現していることが問題にされることがあるようですが、神がすべてを創造されたと主張することも、科学的に証明できませんので、科学とは言えないといわれるのは尤もです。しかし、「創造科学」の意味は創造論の立場から、進化論を科学的に検証すると理解すれば問題はないと思われます。
問題なのは、進化論が多数派であることを根拠にして、学校でも進化論を事実であるかのように教えていることです。そして、種内変化までも進化と結び付けようとしていることです。生物学は空想の世界をさまようことなく、検証可能な科学の領域にとどまるべきでしょう。

他山石 「空海と景教」 19  茄子作 九

2009 年 10 月 5 日 月曜日

  弘法大師・空海と云えば、日本でも一番人気の天才ですが、昔からキリスト教との接触が取沙汰きれて来ました。例のイロバ歌にキリストの贖罪死や神の唯一性が読み込まれていると説かれたり、本尊の大日如来と主なる神との相似性も云々されて来ました。
けれども、イロハ歌が空海の作であることは不明であり、その遺文中にキリスト教関係の一語も発見されていないことから、文献上では右のような話をたしかめることは出来ません。
 けれども、空海は唐に留学した際、キリスト教と接触したことは疑えません。時あたかも、都・長安は〝大泰景教″つまりネストリウス派のキリスト教が大流行中で、何でも見てやろうという知的興味の旺盛な空海が、その教えに開心を抱いたことは当然予想されます。
 空海は帰国の際に沢山の経文類を持ち帰りましたが、その中の一つ「六波羅蜜多経」は恩師の一人である般若三蔵が景浄の協力を得て訳し始めたものでした。そしてこの景浄こそ大泰寺と呼ばれた教会の牧師だったのです。
 もっとも、般若三蔵はのちに新しく訳し直したのですが、その間の経緯は空海も聞いていたと思われます。しかも、空海の宿所である西明寺と大泰寺つまり教会との距離は、旧地図によってはかってみると、わずか十五、六町(一キロ半~二キロ)ほどの近さでした。
一年三か月にわたる長安滞在中、空海はしたしくその門前を往来し、足を踏み入れたことでしょう。三十才を越えたばかりの空海が、どんな顔で教会堂を見、その教えを聞いたことか。
キリスト教は、壮年留学僧・空海の姿をも合わせて、中国、日本の歴史の上に大きく翼をひろげています。

新暦最初の元旦  茄子作 九

2009 年 9 月 12 日 土曜日

壁にかけた初暦の折目が冷たく揃ってっているのは」なにかヒヤッとする新鮮さです。
初暦めくれば月日流れこむ。日本最初の新暦(太陽暦)による元日は、明治六年のことでした。それまで、持統天皇八年(AD六九二年から一一八一年間いうもの、陰暦が使われて来たのですが、明治五年(AD一八七二年)の十一月九日、政府は突如として、改暦を布告しました。
 「来ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト定メ」
と。
.今日でさえ、旧暦で行事をおこなう風習があるくらいですか
ら、当時の人々の心中はタイへンなもので、老婆が「師走(し
はす)の三日に正月が来るなんて、けったいな」と嘆けば、職
人は「されば、昨日は十二月一日で、明日は一月一日だという
のか。そんなら十二月の二日には三十日分も働かなければなら
なくなる。徳川の正月の方がいい」という次第。
 では、なぜ政府は陰暦を陽暦に改めたのでしょうか。万国共通の日付にする必要と、旧暦にまつわる様々な迷信を一掃する意図があったことは知られています。しかしこれが、わざわざ「明治六年」にかぎって断行された裏には、国の財布の事情があったのでした。
 すなわち、旧暦だと、明治六年には、まるまる一ヶ月を閏月(うるうづき)として、ふやさなければならないのですが、維新前は官吏の俸給が年給だったのを、維新後は月給日給制度にきりかえていました。となると、、明治六年には官吏へ月給が十三ケ月分となってしまう。
 ただでさえ、窮屈なのに、一ヶ月分の余計な支出は無理だというわけで、明治六年を新暦に切りかえて、閏月を消し去ったという裏話です。.
おかげで、官吏十二月分の月給と翌年もらうはずだった閏月分の月給をもらいそこねるというオソマツでした。

他山の石 「慈善の師弟も」23  茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

 叡尊(えいぞん)、忍性(にんしょう)と云っても、ご存知ないかたが多いことでしょうが、鎌倉時代に慈善活動で奮闘した律僧として、もっと銘記されてよい師弟です。
 叡尊は、「非人救済」、すなわち乞食への施しや、「殺生禁断」、つまり生きものの漁猟を禁じて、戒律の実践に献身しました。そのころ老朽化していた宇治橋を造営したかわりに宇治川での漁をやめさせて生斉救済を期しました。
 弟子の忍性も、非人や捨て子の救済にあたり、囚人に手をのべ、橋を架けること百八十九、道を開くこと七十一、井戸を掘るること三十三と云われました。
 とくに奈良北山に建てた癩者の施設・北山十八間戸は有名です。馬病舎も設けて、獣畜にあわれみを施すことも実践しました。
しかし、これらの事業が、人々の尊敬を受けるはかりであったかというと、そうではなく、反対の声が高かったことは考えさせられます。
 「摂生禁断」と云っても、そのために漁師や猟師たちは職を失わざるを得ません。また、慈善費が通行税などによって調達されたりしました。「乞食や魚のために真面目に働いている者が犠牲になるとは何事か」と云うことで、あの日蓮も攻撃の側に立ちました。
 さらに、悲しいことには、当の乞食たちが、次第にゼイタクになり、感謝を忘れて不平をもらし、施し強請するようになり、ついにはその欲得のため、乞食同士で乱闘に及ぶのでした。ナンということを、やんぬるかなや、なのでした。
 慈善事業の限界でした。根本は、人の心そのものの改造、いや生まれかわることでした。
「人あらたに生れずば、神の国を見ることあたはず」<新約聖書・ヨハネ三章3>と云う、聖書のみことばが底深いところから聞こえて来るような気がします。

他山の石 「いろは歌と聖書」 21  茄子作  九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

 イロハ歌が空海作のものでないことは、今日しられるところとなっていますが、なにも空海でなくても出来るという例は、一九〇三(明治三十六)年に「万朝報』新聞で一等当選した次の作品でもわかりましょ
 とりなくこゑす ゆめさませ
 (鳥鳴く声す 夢きませ)
 みよあけわたる ひんがしを
 (見よ明けわたる 東を)
そらいろはえておきつへに
(空色映えて沖つ辺に)
 はふねむれゐぬ もやのうち
 (帆舟群れ居ぬ もやのうち)
 今様詞に「ん」も入れて完壁
です。
 このほかには、イロハを和歌の頭と尾によみ込んで、連作という試みもあります。
 あらさじと打ち返すらしを山田の苗代水にぬれて作るあ
 めも遙かに雪間も青くなりにけり
  今こそ野辺に若菜摘みてめ

つくば山 咲ける桜の匂ひをば入りて折らねどよそながら見つ

 それぞれ頭尾に「あ」、「め」、「つ」をよみ込み、これを通すと「あめ、つち、ほし、そら、やま、かは」となって行く趣向です。平安中期の才人・源 順(みなもとの・したごう)の作です。
 もっとも、このこころみはすでに聖書にありました!詩篇一一九篇が、それです。
 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。そのさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
以下、各八節ヅツヘプル語のイロバを各行の頭によみこんで、
堂々一七六節、二十二段の大長編。しかも、テーマは〝神のことば″で終始一貫とは、さすがは聖書のイロバ歌というところでした。
 それも、第一段は「幸いなことよ」と若々しいマーチ風で始まり、第二十二段のしめくくりは「私は滅びる羊」と、「わび」、「さび」でおさめたところなど、たまりません。

他山の石 「いろはうた」 20  茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

  色は句へど 散りぬるを我が世誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず
 このご存知「いろはうた」は長いあいだ弘法大師・空海の作とされました。しかも、これを七字切で書いて見ると、上表に並ぶ文字が「いちよらやあゑ」となって、「やあゑ(ヤーベ)」つまり「エホバ」は「いちよら」つまり一つ」となる。また下一線に並ぶのは「とがなくてしす」で、「咎無くて死す」と読めるところから、キリストの福音が隠されていると云われました。
 このほか、面白いのは、あの歌舞伎のドル箱・竹田出雲作「仮名手本忠臣蔵」の題名は「咎なくして死んだ」赤穂四十七士を「四十七字」の仮名手本である「いろはうた」にあてたものでした。とすると、この浄瑠璃が初演された一七四八年には、すでに「咎無くて死す」という読みが広くおこなわれていたこおtがわかります。
 さらにさかのぼると、同じく無実の罪で処刑きれた死刑囚の作、それも詩人の作であろうというわけで、万葉の歌聖・柿本人麿の作ではないかという珍説もなされました。
 けれども、「咎なくて死す」とは「寂滅為楽」の仏教思想にあたるから、これは仏家、ことに真言宗系の仏者の作であろうともされました。
 あれこれするうちに、大矢透 の「菅図及手習詞歌考」(一九-八・大正七年)が発表され、弘法大師作説は影を薄くしました。文法などの点から空海(七七四~八三五)よりも百年以上あとのものと断案されたのです。
 とは云え、この「いろはうた」がキリスト教と関連させられたのは、空海自身が唐の都・長安留学中にキリスト教にふれたことによっているわけで、たとえ空海の作でないとしても、何となく見えない因緑が感ぜられる次第です。

他山の石 「共にただ凡夫」 茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

聖徳太子憲法の第二条には、「人はなはだ悪しきものすくなし」の一句があります。一帝、二皇子、一帰化人を殺し、それ.でいながら寺院を建造したり、さかんに宗教行事をおこなう蘇我氏。そんな矛盾に苦悩し、激怒し、かつは絶望にかられる太子は、それでも、右の一句をロにし、「よく教うるをもって従いぬ」とつづけて、なお希望を持とうとしたのでしょうか。 このように、外に向けて燃える怒りの心眼は、内に瞑黙して、「共にただ凡夫のみ」と沈潜したのでした。宗教というものは、自己を責めるものであり、外に向けられた刃は、反転しておのれを突き刺すものなのです。
それにしても、「共にただ凡夫のみ」と行きついた太子の思想は二百年後には伝教大師最澄の血を吐くような告白、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」に受けつがれ、さらに下ること四百年後に、「十悪の法然房」から「愚痴の法然房」から「愚禿釈の親鸞」へといよいよきびしく追及されていくのです。
.聖徳太子はAD六百年、最澄はAD八百年、法然・親鸞はAD千二百年の人です。しかし、それよりもはるかな昔、紀元一世紀に、使徒パウロは「われは罪人のかしらなり」と喝破していたのであり、その罪からの救いは、ただ恵みによると宣明していたのです〈新約聖書・テモテ第一1・15>。 

他山の石 「正宗の脇差」 茄子作 九

2009 年 9 月 5 日 土曜日

   東北の雄・伊達政宗(だてまきむね)は、いわゆる譜代(ふだい)大名ではありませんでし元が、徳川家庶・秀忠・家光の三代に仕えて勲功がありました。
 もともと、政宗は大太刀を差していましたが、三代将軍家光に召された時、その長脇差しを腰からはずし置いて進み出ました。これを見て家光は「差したままでよい。」。老年のことではあるし、お前がどんな心を抱いていかは知らぬが、私は少しも気づかいなどしておらぬ。さあ太刀を差したままでないと、盃をとらせぬ」と、たわむれました。
 それを聞くと、政宗は感涙にむせび、これまで二代さまには身命を投げうってお仕え申しあげましたが、今の三代さまには、これという忠勤の覚えもございませぬのに、かくまで有難い御恩顧をたまわりますことは死んでも忘れませぬと、そのまま酩酊し、前後も知らず、いびきをかいて寝入ってしまいました。
 その間、近習の者が、熟眠している正宗のかたわらに脱ぎおかれ
ていた大太刀を、ひそかに引き抜いて見れば、中身はなんと木刀で
造られていたのでした。
 聖書でも、猜疑と嫉妬に狂うサウル王にねらわれた悲劇の名将ダ
ビデは、エン・ゲディの荒野に追いつめられ、そのほら穴に息をひそめましたが、そこへ入って来たサウル王の上着のすそを一片、ひそかに切り取りました。
 やがて、サウル王がほら穴を出て行った時、ダビデは後から「王よ」と呼びかけ、地にひれ伏すとその一片をかかげて、自分に逆心のないことを証しました。
 さしものサウル王も、それを見ると、「わが子ダビデよ」と呼びおのれ非を告白し、声をぁげて泣きじゃくりました。〈サムエル第一24章〉
東西を問わぬ、きびしい時代の身の証の切なさのひとこまです。